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映画『石がある』

映画『石がある』。

ビジュアルデザインを脇田あすかさんが務めるということから存在を知り、"意味や目的から軽やかに抜けだす「現代のヴァカンス映画」"という公式サイトの紹介文に惹かれて、太田達成監督・小川あんさん・加納土さんの舞台挨拶つきの回で鑑賞した。

舞台挨拶では、「観客の一人の時間を大事にする映画かもしれない」という言葉が、小川さんから語られた。まさしくそうで、鑑賞中にもいろいろな思考が頭を巡った。個人の解釈に開かれていて、であるからこそ、この記事に書くような妄想が多岐に広がった。

鑑賞後の勢いのままに、まだまとまりきっていない粗削りの石のような感想を、つぶてのごとく書き記す(石メタファー多め)。

意味や目的から軽やかに抜けだす「現代のヴァカンス映画」

「途方もない無意味さに、なぜか心震えて」
友人との旅行で石拾いをした経験に触発されてシナリオを書きはじめた太田監督が、配給・公開の計画も立てぬまま、心から信頼する少人数のスタッフ・キャストと共につくりあげた映画『石がある』。川で出会った二人が束の間の時をすごす素朴な筋書きながら、心情のなびきや偶然性の豊かさを見事に捉えた本作は世界10以上の国際映画祭から招待された。さらに、ゴダール、トリュフォーらを生んだ仏映画誌『カイエ・デュ・シネマ』では日本映画として異例のレビュー枠を獲得したほか、韓国の映画誌『FILO』では20ページ以上の特集が掲載。世界中の映画ファンからラブコールを浴びた。作品全体を貫く予感に満ちた間合いは絶えず意識を引きつけ、いつしか観客を澄んだ水辺へと運びだす。

映画『石がある』公式サイト https://ishi-ga-aru.jp/

※ネタバレというほどではないですが、映画の内容に関しても記載するため、前情報を入れずに映画を楽しみたい方は、ぜひ鑑賞後に読んでいただけるとありがたいです。

とるにたらない日常

この物語は、とるにたらない日常を切り取ったものである。

そのためか、登場人物には名前がない。(この記事では、小川あんさん演じる女性を「女性」、加納土さん演じる男性を「男性」と記載する。)映画のコピー「あなたの名前を これからも知らない」からも、匿名性や一回性の関係が示唆される。

また、具体的な場所も明示されない。(川沿いに立つ標識から、ロケ地は静岡県および神奈川県を流れる二級河川の酒匂川であることはわかる。)

ものさしの多様性

われわれ人間は、川辺に存在する無数の石のように、とるにたらない存在であるということ。川辺を歩くとき、大きい石や、光る石や、球に近い形の石に、つい目が行きがちである。けれども、この観点は、石を探す目的やものさしにおいて大きく変わる。

たとえば、水切りをするためには、平べったい石が向いている。石積み(ロックバランシングというかっこいい名前がある。by加納さん)においては、滑りづらかったり重心が安定したりする石が向いている。的当てのためには、投げた時にコントロールしやすい小さい石が向いている。

日常を逸脱したいろいろな遊びの空間を通して、そんな観点の多様性を示してくれているようである。ものさしは一つではない。女性が穿く白いスニーカーが、遊びを通して次第に汚れていくことは、価値軸が融けていくようなイメージと重なる。

また、無数に存在するからこそ、石(および人)との出会いは一期一会である。きっと、あの丸い石を川の中から探し出すことはできない。一つ一つの邂逅をいかに大事にできるか。

サンテグジュペリの『人間の土地』の一節を回想する。石積みのように、自分の石が他者の石と重なり合うことで、世界全体を生成していること。その感覚があるからこそ、社会のなかで生きていけるということ。

人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。

サン=テグジュペリ『人間の土地』

社会との距離感

川の流れは、社会やシステムのなかに存在する強い流れかもしれない。この映画は、そこから逃れて川沿いを歩く二人の話である。

ただし最終的には、川を渡るための橋や、スマホを利用するための電力というインフラに頼る必要があるように、社会は決して悪いわけではない。大事なのは、盲目的になって流されてしまわないこと。強い流れからも、適度な距離を意識的にとれる状態にしておくこと。

そんな視線で見ると、男性が興じる水切りは、強い社会に対する小さな反抗の象徴のようにも映る。川の流れに飲み込まれないように、川面を切り裂くように、石を投じる行為。

女性がこの土地を訪れた理由は、社会的な存在として携わる仕事において何かしらのトラブルを抱え、そのリフレッシュのためだったのではないかと想像する。(公式サイトのあらすじには「旅行会社の仕事で郊外の町を訪れた主人公」という記載がある。地元の人に観光名所を訪ねるシーンはあったものの、旅行会社勤務である旨は、劇中では明示的には描写されていなかったと思う。)

女性が帰りの電車を待つ際、駅のホームでは、「上り電車が参ります」というアナウンスが流れる。川沿いを歩くときは、都会から離れて上流へ向かうことが「上り」であった。一方、社会的・システム的な存在である電車の文脈においては、都会へ向かう電車が「上り」である。そんな対比が面白い。まさに、何を上と捉えるのかは、文脈によって差異があることの現れ。

印象的なシーンの石片

男性が日記を書くシーンが印象的。数分にわたり、台詞はなく、ノートに文字を書く様子が映され、ペンの音のみが響く。文字にするときに、書ききれずにこぼれ落ちてしまう感情や心の機微は多々ありそう。現に、日記には事実の羅列のみが書かれていた。けれども、とるにたらない出来事だからこそ少しでも忘れないように記録に残すのだろう。

男性が地元の観光名所について女性と語る際、花の名前を列挙する。その際、ガーベラやシロツメグサが先に出てきて、実際の庭園ではより注目されるかもしれない(これは主観なのだけれど)バラが後に出てくる。知名度や注目度では劣るかもしれない花々に対しても目を向ける姿勢の現れなのでは。

途中、実は男性は実在せず、女性の想像上の虚像で、その正体は石だったのではないかという妄想が働いた。男性の体格や髪型は、思えば石のようにも見える。また、川を歩いて渡るなど、通常の人間であればとらない行動である。(一度、男性の姿が消えるが、しかし実際は男性が女性を驚かせようとして隠れていただけだった。)

女性が夜中に立ち寄った場所が、閉業後のガソリンスタンドを利用している事務所であったこと。ガソリンスタンドでの給油のように、心の充電がなされたことの象徴である。また、文字通り、スマホにも充電をほどこすシーンである。

女性が子どもに誘われて、ともにサッカーに興じる場面でも、自分の立ち位置を気にしてか、心の底からは楽しめていないように思える。仕事における人間関係の難しさを引きずっているのか。男性を相手にするときも、傷つけてしまうことを恐れてか、彼を置いて帰ることができない。そんな彼女が、人間の枠を飛び越えて犬のチャコと触れ合うシーンでは、ようやく心を落ち着けていたように感じる。

石川啄木の『一握の砂』の以下の一句(まさに「石」と「川」、そして石が砕かれた砂というモチーフ!)のように、社会やシステムからは逃れた領域にいる犬をうらやましいと思う気持ちには共感する。人間は、散歩の当番表というシステムをうっかりつくってしまうが、当のチャコはおそらくその存在など気にしていない。

路傍(みちばた)に犬ながながとあくびしぬ
われも真似しぬ
うらやましさに

石川啄木『一握の砂』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/816_15786.html

鑑賞後に残る疑問

全体的に描写が少なめの映画である。そのため、解釈は鑑賞者側にひらかれている。いくつか、鑑賞後に残った疑問を記しておく。

まずは女性に関するもの。

そもそも女性がこの土地に来た理由はなんだったのか。いちおう仕事で、と言ってはいたが、川沿いを歩く過程ではとくに仕事らしいことはしておらず、一人でリフレッシュのためにすこし郊外へと日帰りで足を伸ばしたように想像した。

女性が丸い石を見つめるとき、心の内にはどのような感情が芽生えていたのか。すこし涙を浮かべていたようにも見える。丸い石の美しさに惹かれたことは一定の事実だと思うが、はたしてそこに投影していた想いとは。

小田原行きの上り電車に乗ったあと、川のなかに男性の姿を見つけた女性は、はたして電車を降りて引き返して一緒に石を探すのか。きっと戻らないのだけど、一緒に探す未来があってもよいと思った。

続いて男性に関するもの。

男性はふだんは何をしている人なのか。日記の内容からすると、午前中に仕事が終わるようである。フルタイムでの勤務ではないが、ただし決して困窮しているわけではない。多くの書籍に囲まれた生活をしていることも印象に残る。

また、家で線香をあげた先の相手は誰だったのか。住んでいる家の広さからは、かつてはそこに誰かと住んでいたと思われ、それは親か配偶者か。彼の不器用さに起因する勝手な偏見と、左手薬指に指輪がないことから、結婚はしていないのではないかと推察する。

意味や目的からの逸脱

「撮影中、川の様子が日々変わった」「この映画は、見るたびに印象が変わる映画かもしれない」と太田監督は語る。

映画自体は変わらなくても、われわれのなかにある感情の流れは川と同じくつねに変動していて、映画を観るときにもその状態が作用しているのだと思う。川の連想を重ねると、鴨長明の『方丈記』の冒頭のように、まさに日々移りゆく儚さへの礼讃のよう。二度と同じ川の流れはないように、二度と同じ鑑賞体験もない。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

鴨長明『方丈記』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html

視界をひろく捉えてみれば、地球という星も、宇宙のなかではとるにたらないひとつの石でしかない。そんな視点を持つことも大事かもしれない。けれども、そんな儚い存在のなかでも、日々われわれの生活ではさまざまな出来事が発生している。

とるにたらない瞬間を通して、やはり、意味や目的から軽やかに抜けだした先にある景色を見せてくれる映画だったのだと思う。

あとがき

岸政彦さんの『断片的なものの社会学』。読み始めたばかりなのだけれど、イントロダクションのなかに、まさにこの映画と呼応するような文章があったので記したい。

私には幼稚園ぐらいのときに奇妙な癖があった。路上に転がっている無数の小石のうち、どれでもいいから適当にひとつ拾い上げて、何十分かうっとりとそれを眺めていたのだ。広い地球で、「この」瞬間に「この」場所で「この」私によって拾われた「この」石。そのかけがえのなさと無意味さに、いつまでも震えるほど感動していた。

岸政彦『断片的なものの社会学』

社会学者として、語りを分析することは、とても大切な仕事だ。しかし、本書では、私がどうしても分析も解釈もできないことをできるだけ集めて、それを言葉にしていきたいと思う。テーマも不統一で、順番もバラバラで、文体やスタイルもでこぼこだが、この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて、思いつくままに書いていこう。

岸政彦『断片的なものの社会学』

なんと素晴らしい文章だろう。説明をつけ加えるまでもないのであるが、つまり、この映画はかけがえのなさと無意味さが持つ社会学的な思想までをも味わう作品なのである。そして、この地球すら石の断片の集まりでしかなく、この宇宙もまた地球のような石の集まりでしかない。

ただなんとなく引っ掛かりが残るのが、ただ単に無意味や無目的っていいよね、という感想に片づけてしまいたくないと思うこと。その先にある何かに到達したいと感じること。それを「価値」や「意味」と呼んでしまうとニュアンスが強いし、むしろ名づける必要すらないのかもしれないのだけれど、たぶんそれがないと理想論のように響いてしまう。言葉にできないよさを言葉にして他者に伝えることも大事。いかにそのマインドを日常でも忘れずに保持するかとか、意識的に切り替えをできるのかとか。いかにシステムのなかに忍ばせるかとか、子どもに戻らずとも遊び心を保持できるかとか。


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