亡くなった祖父のお話
先日、私の祖父が亡くなりました。
89歳。大往生でした。
どういう病気でとか、どういった経緯で亡くなったとかそういったことはこの記事で書くつもりはありませんが、
亡くなる直前もお酒が飲めるくらいの元気はあり、きっとあまり苦しむことはなく安らかに天国に昇って行ったはずだ、ということはあらかじめ書いておきます。
この記事は祖父のエピソードを自分なりにまとめて、
亡くなった祖父から私が教わった長く生きるためのヒントを読者の方でも共有できるように、
そして自分が祖父のことを忘れる事が無いように記録しておくために記しました。
とは言っても湿っぽい話ではないので、お時間がある人はよかったら最後まで読んでもらえたら嬉しいです。
生い立ち
祖父は1932年に高知県の宿毛市(すくも)で誕生しました。
非情に優秀なお兄さんがいたようで、「高知の神童だった」と自称するくらいには学業が優秀だったようです。
戦後は兄と共に兵庫に移り住み、あまりにも優秀な弟である祖父を大学に行かせるために(本人談)兄が頑張って働いてくれたおかげで、神戸の大学に進学できました。
大学卒業後に某音楽器具会社に就職し、そこからは優秀なセールスマンとして日本だけでなく海外各地に飛び回っていたようでした。
そういった事情もあって、家を空けている時期も長かったために定年退職までは典型的な仕事人間だったようでした。
ただ、子供(要するに私の父親たち)の決めることにはあまり口出しはせずに黙って見守るというスタンスだったようです。
また海外を飛び回っていただけのことがあってか非常にファッションセンスにもこだわりがあり、
新しい文化や流行も積極的に取り入れる頭の柔軟さを持ち合わせていました。
80代にしてモバゲーに興味を持つ
そんな祖父の家にある時遊びに行ったら、唐突に
「お前モバゲーってものを知ってるか?おじいちゃんモバゲーで遊んでみたいんだがどうすればいいんだ?」
と相談されて驚愕しました。
祖父は麻雀が好きで、旅行先で買ったゲーム&ウォッチの麻雀のゲームを20年以上愛用して遊んでいました。
しかしある時ついに故障してしまったようで、それに代わる新しい麻雀ゲームを探していたようでした。
その時祖父がふと目にしたのがモバゲーのテレビCMで流れていた麻雀ゲームで、あろうことか祖父はそれに興味を持ってしまったのです。
しかしこの時既に御年80歳越えでまだスマートフォンを持っていなかった祖父に、
モバゲーをやるためだけにスマートフォンが欲しいと携帯ショップに連れて行って色々と説明するのはあまりにも荷が重いと判断しました。
結局、私が過去に使っていたニンテンドーDSと麻雀のソフトをプレゼントして事なきを得ましたが、それでも80歳越えの人があっさりとDSの使い方を理解したというのが私にとってもなかなか衝撃的でした。
もしあの時魔がさしてモバゲーデビューをさせていたらどうなっていたのやら…若い人(特に女性)と交流したがってたからもしかしたら…。
振り込め詐欺を論破する
2000年代中頃から急速に被害が拡大し始めた「振り込め詐欺」。
ある時、その電話が祖父母の家にも来てしまいました。
祖父がその電話に応じたのですが…。
詐欺師「すいません、私は警察の者ですが、おたくのA太(2人兄弟の弟の名前)さんが痴漢で逮捕されてしまいまして…被害者の方と相談した結果、示談として取り下げる方向で話が進んでおりまして…」
こういった電話を受けると大抵の高齢者は動揺してしまうようですが、
祖父は「痴漢で捕まったのもおかしいけど、そんなにすぐに警察署に連れて行かれるのか…?」と即座に判断したようで
祖父「すいません、警察署って言ってますけどどこの警察なんですかね?」
詐欺師「えっ…えっと、鈴木警察と言います(適当)」
祖父「そんな警察聞いたこと無いわ!!適当な事言うな!」
詐欺師「」
こうして哀れな詐欺師は大敗を喫してしまったようです。
これで済めばいいのですが、あろうことかこの詐欺師はなんと1ヶ月もしないうちに祖父の家に再度電話をかけてきたようです。
当然「またお前か!」と祖父に一喝されて即切りしたようでしたが…。
料理と焼酎が好きだった
定年退職後に色々な趣味に手を出したようですが、特に気にいったのが料理だったようです。
先述したとおり出張が多かったという事情から、家事はほとんど祖母に任せきりだったようですが、
定年後に自分で祖母との夕食を準備するようになったと聞いています。
実際、私が遊びに行った時もよくカレーライスを作ってくれていたのを覚えています。
またどういった経緯かは不明なのですが、漬物が非常に好みで全国各地の漬物を取り揃えて食べさせてくれました。
特にお気に入りだったのは松前漬け(北海道の郷土料理で、主にスルメと昆布を醤油で漬けこんだもの)で、
私も教えてもらって非常に酒のつまみに合うと気に入ったので、定期的にスーパーで具材を買って自作しています。
また、焼酎が非常に好きでした。
痛風の症状が出始めてからは焼酎にハマっていたようで、父親は毎年誕生日プレゼントと父の日に高級な焼酎をプレゼントしていたようでした。
私も誕生日プレゼントにネットで取り寄せた珍しい焼酎をプレゼントしていましたが、それを棚に保管してなかなか飲まずに色々な人に自慢していたようです。
焼酎にはプリン体や糖質が少なく、割り方を変えることで色々な飲み方があることを私に教えてくれたのは間違いなく祖父でした。
それと引き換えに私は焼酎にもいろいろな味があることを教えることができたので、向こうも嬉しく思っているんじゃないかなと。
他にも毎年のように正月には豪華なおせち料理を自作していたり、スムージーがブームになる前から自作のスムージーを毎朝飲んでいたりと食べる物には拘っていました。
食生活は健康に直結する要素ですが、摂生しすぎるほどでもなく好きな物を作って好きなものを飲むことが長寿の秘訣だったのかと私は考えています。
趣味を続けることの大切さ
料理と同じタイミングで祖父が始めたもう一つの趣味がコーラスでした。
住んでいる市のコーラスサークルに参加していたのですが、祖父はなんと88歳になるまで毎週一回の練習を欠かさずに参加していたようです。
最初はドレミの音階も分かっていなかったようでしたが、最終的には大会にも参加して優秀な賞を獲得するまでに至ったようです。
残念ながら去年の冬頃に諸事情で引退してしまいましたが、もちろんサークルの最高齢記録は大きく更新していたと聞いています。
このことから、
「声を出すこと」「週に一度くらいのスパンで何かを続けること」「家族以外の誰かと喋るようにすること」
この3点のどれかが…いや、もしかしたら全てが長寿の秘訣だったのではないかと私は本気で考えています。
これは私にとっての大きなヒントになりそうだなと思っています。
最後に
今回は祖父のために捧げる文章なので、記憶から消えることがないようにこうして書き留めることが一番大切だと思ったので短時間で一気に書き上げました。
どうしても、亡くなったという事実がまだ心の中で受け入れきれていなくて、また家に遊びに行ったらいつものように声をかけて背中を叩いてくれないかなって思っています。
でも、こんなご時世の中でなかなか直接最後のお別れの言葉が言えない方も多い中で、
最後の最後に「ありがとう」の言葉を直接かけられたのは私にとって本当に良かったと思っています。
いっぱいヒントを貰えたんだし、俺はそれを越えて最低でも90歳までは生きていたいなって。
いつになるか分からないけど、また向こうで逢える時にはお話ししようね。
本当にありがとう。
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