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神楽坂で前歯折れたときの話

これは、僕の出っ歯の前歯が折れたときの話である。ちなみに、ばあちゃんには「カニが食べやすそう」と出っ歯を褒められたことがある。


事の発端は、2016年5月。僕が神楽坂にある会社で働いていたときのこと。

大きなプロジェクトが終わり、神楽坂でお客さんとの打ち上げがあった。プロジェクトが無事に終わった達成感と解放感から、がぶがぶと日本酒を飲んだ。酔拳2のジャッキー・チェンくらいベロベロになっていた。

会食が終わり、お客さんを駅まで見送った後、自宅のある早稲田まで歩いて帰ることにした。なんといっても、この酔っぱらった状態で、夜風にあたって酔いを覚ましながら家まで帰る時間こそ、至福のとき。このために酔っぱらっているといっても過言ではない。

ジャケットのポケットからイヤホンを取り出し、スマホで宇多田ヒカルの「First Love」を流す。東京のコンクリートジャングルに蝕まれた心身を、夜風とヒッキーの歌声が癒やしていく。


そして、僕は目を閉じる。五感の中で知覚の87%もの割合を占める視覚を遮断することにより、神楽坂の夜風と宇多田ヒカルのコンビネーションだけを純粋に楽しむことができたのだ。

神楽坂の夜風と宇多田ヒカルの組み合わせはオーガニズムに近い快感だった。それ以外の情報を一切遮断してその快感を全力で浴びた。


神楽坂から早稲田までは一本道。当時、毎日徒歩で通っていたため、その道のりは体が記憶しており、目を開ける必要すらない。そう、この道中のみ僕は「心眼」を使える魚沼宇水と化していた。


歩き慣れた道なので、革靴から感じられるアスファルトの感触や、坂の傾斜から、自分がどこにいるか容易にわかる。そして自宅までのルートを完全にシュミレートしているため、何歩目にどんな障害物があるのかすら完全に予想できたのだ。


僕は神楽坂を、春の夜風を、宇多田ヒカルを、独占できた。
夢見心地とは、まさにこのことであった。



しかし、目を閉じて歩いてから20秒ほどで、僕は一気に現実に引き戻されることになる。


誰かに殴られたような衝撃が僕を襲った。上体が後ろへそらされるような大きい衝撃であった。僕が目を開けた瞬間、目の前にそびえ立っていたのは、電柱であった。

心眼を使って道中を完全にシュミレーションしていたはずの僕だったが、いつの間にか、電柱に引き寄せられていた。そう、(おそらく)手塚ゾーンを使っていた電柱に引き寄せられた僕はそのまま電柱と衝突したのだ。

衝突に対して微動だにしない電柱。傷一つついていない。さすがコンクリートのかたまり。なんという安定感。まさに手塚国光。これが青学の柱。電柱が僕に「油断せずに行こう」と語りかけているような感じすらする。


電柱の衝突から数秒後、口の中に激痛が走った。何かと思い、指で触って確認する。前歯が折れていた。

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片方の前歯がきれいさっぱり無くなった。

ここまでの経緯を一言でまとめると、酔っぱらって、調子に乗って目を閉じながら歩いていたら電信柱にぶつかって、前歯が折れた。ということになる。


・・・電柱にぶつかった時に、前歯が折れることなどあるのだろうか?

ほとんどの人は電柱にぶつかっても、前歯が折れることはないだろう。普通に考えて前歯から電柱に当たることなんてほぼない。人体の構造的に、最初に頭、もしくは体が接触するはずだからだ。

しかし、出っ歯で、宇多田ヒカルの「First Love」を口ずさんでいて、目を閉じていた僕の場合は、そうではない。電柱にぶつかると前歯が折れる三大要素を兼ね備えた僕の前では、人体構造のセオリーなどは通用しない。それを身を持って証明してみせた。確かに、最後のキスはコンクリートのFlavorがした。ニガくてせつない香りだった。


誰が悪いのか?おそらく電柱が悪い。8:2で東京電力とNTTが悪い。やつらが電気線やら電話線を引くから、罪のない僕の前歯が折れたのである。

しかし、東京電力とNTTへの怒りも、数秒後には落ち着いた。完全酔っぱらっていたからである。これはもしかすると、夢なのかもしれない。そもそも前歯は折れていないのかもしれない。だんだんそう思い始めた。

酔いが回って少しずつ眠たくなってきた。折れた前歯の破片を探そうとしたけど、もういいや。前歯も、この痛みも、全て明日の朝に解決しているだろう。そう、これは夢なのだから。そう思って、僕は家に帰って、寝ることにしたのであった。




翌朝。


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・・・前歯は折れていた。

夢じゃなかった。まごうことなき現実だった。

I Dreamed a Dream.

スーザン・ボイルよりも気持ちを込めて「夢破れて」を歌える自信があった。カグラザカズ・ゴット・タレントでは、スタンディングオベーションが贈られるだろう。


前歯が折れていて、顔もパンパンに腫れていて、髪もボサボサだ。ゲゲゲの鬼太郎のそこらへんの妖怪より、全然妖怪としてやっていける自信がある。近くに鬼太郎がいたら、妖怪アンテナがすこぶる反応しそうだ。

自分でも、鏡でこの表情を見て爆笑してしまう。顔がおもしろすぎる。「警察24時ですぐに検挙されてそう」とか思って笑ってしまう。その後、すぐにこの顔が自分の顔であると認識し、絶望する。寝起きの10分くらいは鏡の前で爆笑と絶望を繰り返した。それをあと5分続けていたら、ジョーカーになっているところであった。


その日、僕は会社を休んで、歯医者に行った。事情を説明したら歯医者さんが笑っていた。笑いながらカルテを書いていたので、ペンが震えていた。


治療後、出っ歯の前歯は差し歯になって生まれ変わった。歯の裏側の部分、他人から見えないところは銀で出来ている。凍ったものをその歯に当てるとすぐに溶けていく。

ばあちゃんにそのことを話すと「アイスが美味しく感じるやろね」と褒めてもらった。



ばあちゃんは相変わらず褒め上手である。


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