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10年を振り返って。

2013年9月27日。今からちょうど10年前、大阪の少路という小さな街にHINATAは産声を上げた。

当時30歳。
30代という時間の全てをHINATAで過ごしたことになる。この10年間はあまりにも色々なことがあり、とにかく失敗と挫折の連続。
自分の未熟さに嫌というほど気付かされた10年だったとも言える。


この10年という大きな節目に

開院当時の自分に向けて、
今一緒に働いてくれている仲間に向けて、
そしてこれからHINATAに参画する未来の仲間に向けてという形で書いてみようと。


この順風満帆とは決して言えない、でこぼこ過ぎる道のり。そして10年経った今思うことについて。


開院前夜、決意を書いたノート。


金なし、コネなし、学歴なし。おまけに気が小さく、心配性。

謙遜でも大袈裟に言ってるわけでもなく、本当に誇れるものは何もなく、何も持ってもいなかった。

ただ若さゆえなのか、何も知らない馬鹿だったのか、威勢だけは良くて

今まで色んな治療院で働いて感じたマニュアル化、効率化への違和感。
ルール無視、金儲けだけを重視した先輩経営者への不信感、嫌悪感。
もっと良くできるはずなのになんでやらないんだ!というもどかしさ、苛立ち。


そのフラストレーションを全てぶつけるような、若くて勢いだけの情熱と、青々とした純粋な志を持っていた。

どこよりも患者さんに寄り添って、
        治すことを追求した治療院を作る。

HINATAに行けばなんとかなると地域の人に頼られる
          “ 医療の第一選択肢 ”になる。



今思うと何も知らないからこその、希望に満ち溢れていた気がする。

でも何も持っていないという劣等感もそれなりにあって

「何がなんでも絶対この業界で勝ってやる。」
「自分の存在を周りに証明してやる。」


そんな我欲の強い、少し歪んだ気持ちが心を占領していたのもここで白状する。

勝つことに異常なぐらい執着していたし、
認めてもらうことを渇望していたし、
何もない自分が勝つことで何者かになれることを夢見ていた。

そんな純粋さと狂気めいた感情の両方を持って始まったHINATA。

何より若く青かった。

内装工事が終わって完成した夜。これから始まる船出に、期待と興奮と不安が入り混じっていた。

『360日、9時から21時まで。
電話相談は24時間365日いつでも対応します。』

掲げたキャッチコピーは、あまりにも無茶で無謀。
冷静になって振り返ってみると、なんて馬鹿なことを…と恥ずかしくなることでも、当時は大まじめだった。

才能のあるヒト達と比べると、自分に特徴がないことはなんとなく自覚していたし、普通通りやっていたら負けるだろうとどこかでわかっていたので、
人の倍どころか、10倍でも20倍でもやってやろうと心に決めていた。

患者さんからの期待には全て応えたかったし、HINATAを知ってもらうためのやれることは全てやりたかった。

仕事を終えて家に帰るのは、日が変わってからが当たり前だったし、
時には、朝から試合があるという患者さんの要望に応えて、朝5時に院を開けて治療。そのまま家に帰らず30分だけ仮眠をとって、また日が変わるまで仕事。
休憩時間は取らず、治療に入る2〜3分の間にカップラーメンを食べてまた仕事ということもよくあった。

それでもやり足らず、空いた時間にはもっと良い治療法はないかととにかく参考書を読み漁ったし、有名な病院や治療院に見学に行ったり、取り組みを真似してみたり、自分で改良を重ねたり、
「寝食を忘れて」とはまさにこのことだというぐらい働いた。

毎日診療が終わるのは23時頃。それから勉強会やミーティングで家に帰るのはいつも日が明けてから。目が回る忙しさだった。



休みは1年のうちに、お盆休みだけ。
200連勤というのもあったし、
大晦日の夜に、骨折の患者さんの治療をしながら年を越したこともあった。


そんな毎日を、3年間続けた。



当然、体にも不調が現れ、40度の高熱が1週間続いたり、意識を失って救急車で運ばれたことも3回。

肺炎を起こして1週間の入院と医師に言われたのも断って仕事に戻り、また倒れて救急車。
両腕に点滴と口には酸素マスクをはめられ、
それでも動こうとするから看護師さんに4人がかりで
ベットに抑えられたこともあった。



とにかく必死だった。

なにがなんでも勝ちたかったし、
守りたい人もいたし、
もし自分が失敗したら、大切にしているものも、
自分自身の価値も全てがなくなってしまうという恐怖も常にあったから。


この業界で、この時代で、成功するのは難しいと
色んな人に言われた。

お前には絶対無理だからやめとけと先輩経営者に居酒屋で大笑いされたこともあった。

いずれ借金を抱えて路頭に迷う前に開業を考え直せと真剣に言われたこともある。

周りのうまくいってる人たちを見てみじめな気持ちになったことも何度もあるし、

地震や台風、おまけにコロナという災難続きで大ダメージも受けた。


それでも、這ってでも勝ちたかった。


勝つことへの執念といえばカッコ良く聞こえるけど、
知恵がないから、そこをカバーするには、誰にでもできることを、誰も真似できないほどやるという選択肢しかなかったように思う。

常に体調不良。全身に謎のあざが出たり、治療の合間にトイレで嘔吐しながら一日過ごしたこともあった。


そんな無茶な毎日を過ごすうちに、
経営の方はなんとか軌道に乗り始め、少しずつ患者さんで溢れる院になっていった。


それと同じくして、一緒に働いてくれていた仲間が一人、また一人といなくなっていったのもこの頃だった。

気づいたらいつの間にか、創業時のメンバーはゼロ。

スタッフ同士の喧嘩や小競り合いは日常茶飯事で、新しく入ってきてもすぐに辞める。
雰囲気は常に最悪。
さらに仲間と思っていたメンバーからの裏切り。  

そんな雰囲気で休みなく仕事をするものだから、
心も体もボロボロの状態だった。

今思うと、肉体的な辛さよりも、この時の孤独感という精神的なものの方が100倍辛かった。


“負けたら死だ”と本気で思うぐらいの熱量で生きていたから、その熱量の違いを感じたら容赦なくスタッフを責めていたし、毎日のようにイライラしていた。


今思うと恥ずかしいばかりだけど、
勝つことばかりに執着し過ぎて、周りに目を向けることや、思いやることに欠けていたし、

価値観の違いや、人それぞれ大切に思うものは違うという当たり前のことすら見失っていたし、

それをヒトに押し付けるなんて大間違いなこともわからなくなるほど大馬鹿野郎だった。



大きな夢や希望を抱いて始まったHINATA。

笑顔になれる場所を作りたくて、がむしゃらに走ってきたつもりなのに、
結果的に自らそれを遠ざけて、誰もいなくなって
独りになった時にようやくそれに気付かされた。

この時はもう一生分泣いたと思うぐらい泣いて後悔して、馬鹿な自分が心底嫌になっていた。

10年間やって一番苦しかったのはこの頃だった。

この子を幸せにしたい。家族を幸せにしたい。
来てくれた人を笑顔にしたい。働いてくれる人を笑顔にしたい。痛い目にあってやっと原点に戻ってこれた気がした。

10年を迎えて思うこと。 

今は当時だと到底考えられないぐらい雰囲気は良くなって、毎日スタッフ達の笑い声が聞こえてくる。

当時のような少し病的な執着心や我心は、痛い思いをこれでもかというぐらいしたおかげでキレイに消え去って、心は穏やかだ。

そして、今の方が仕事は有難いぐらいに順調で、広報なんてしなくても県外からも患者さんが来てくれたり、予約が埋まって取れなくなるという有難い悲鳴も出るくらいになった。

あれほど渇望した成功は、追い求めなくなった途端に近くになった気がする。

そして、新しい仲間も増えていった。

みんなでご飯を食べに行ったり、たまに出かける旅行では朝から晩まで大笑いしたり、みんなが夢を話してるのを聞いたり、そんな時間が何より嬉しい。

昔のような狂気めいた勝ちへのこだわりよりも、
HINATAに来てくれた患者さんや、スタッフ、携わってくれているヒトが幸せになるような場所を作る。

初心に戻った今、それが一番の夢になっている。


次の10年に向けて、スタッフへ。自分へ。

『社会にとって、良い影響を与える人間になろう』
『自分の可能性を最大限に広げよう』

まだまだ小さくて弱い、吹けば飛んでいきそうな存在のくせに大口を叩いてるのは十分理解してる。

今まで描いた夢だって、実現も接近もできるどころか、遠のいていったり、消えていったものもある。

これからもまだまだ困難な事や、災難が降りかかってくるかもしれないし、大きな壁にぶち当たって途方に暮れる日が来るかもしれない。

今までの10年が紆余曲折だったように、
これからだって自分の無力さを突きつけられる時がまだまだ来るだろう。

それでもそこから何かを学び、前を向いて歩き出す自分でありたい。

今はまだちっぽけな存在でも、
自分で自分の可能性を諦めずに何度でも挑戦しよう。

自分に言い訳をしたり、逃げ道を探してる時間なんか一つもない。

倒れても何度でも立ち上がってやる。

本気でやれば壁にもぶつかるし、傷だって増える。

だけどそうじゃないと、いいものなんて作れないから。

人生を色鮮やかで面白いものにするかは自分次第。

10年前、こんなところに来れるとは思ってもいなかったように、次の10年後もまた、一回りも二回りも大きくなってみんなで笑い合いたい。

株式会社HINATA
代表取締役 重田 直登



今までの10年間を写真で振り返り。

開院時のメンバー。今は誰も残っていない。
どれだけしんどくてもかわいい息子の顔を見たら、またやる気が湧いてきた。でもこんなかわいい時にほとんど一緒にいれなかったのは今でも後悔。
とにかくお金も時間もなくて、ようやく出かけた万博公園の広場。色んなところに連れて行ったりが出来なかったな。ごめんな。
コロナによる緊急事態宣言直後の外。街から人が消えたのに、うちだけ診療していた。
緊急事態宣言真っ只中。下を向かずに踏ん張ろうと副院長と2人で半ばやけくそのように掲げた目標。年内に全部達成して2人で喜び合った。
新しいメンバーも増えて毎日が賑やかに。
真面目で純粋なスタッフが集まってくれた。
新たな10年に向けて。笑顔が溢れる場所を作っていきたい。






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