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宗教への逆風にいつの時代も

 通い先という言葉があるのだが、ぼくの場合はほとんどが勝手に通っているだけである。向こうからまたきてねと言われたことは一度もない。

 今日行ったところもそうで、初めて家を訪ねたとき別れ際に「またきます」と告げると、こなくていいと笑いながらお断りされた。相手は年老いた独り身の男性なのだが、友達も多くぼくを必要とはしていないようである。
今日も別れ際に「またきます」といったのだが、また「来なくていい」とお断りされた。勝手に通い先にしてしまい、迷惑をおかけして申し訳ないと思っている。


 にをいがけに歩いていて、話を聞いてくれるのは70代から90代のご老人ばかりだ。それより下の方はほとんど相手にしてくれない。
以前、30代くらいの方とお話しをする機会があり、宗教についてどう思うか聞かせてもらったことがある。返答はとてもシンプルで、実害もしくは利益を被ったことがないと話してくれた。
今の時代、宗教と何の関わりもなく生きてこられた。そういう人が大半ではないかと身をもって感じている。


 「暑いなか訪ねてきた青年を家にいれて、冷たいお茶を出してあげてもいいのだけれど、そんなことしても意味がない」と通い先の方に言われた。

信仰をすることに意味がないのか、後が長くない老人と話すことに意味がないのか。はたまた、ぼくがその短い時間のなかで関わるには価値のない人間だという意味なのか。真意は分かりかねるが、意味がないと言われたことには少なからずショックを受けた。
若い方からも年老いた方からも必要とされていない。わかっていたことだが、宗教のこれからは厳しいものだなと身をもって実感する。つい時代だからと言い訳が口をついてしまう。



 
 しかし、本当に時代のせいなのだろうか。
 布教の家に来てから、今まで敬遠していた天理教の本を読むようになった。驚くことに当時のお道も時代のせいにする風潮があったそうだ。昔は信心深い人が多かったからお道は進展したと思い込んでいたが、そうではないらしい。
時代と戦い必死に道をつなげていた先人の姿に本当に頭が下がる。


 いつの時代でも逆風は吹いている。それに乗るか反るか。結局いつの時代も人間の力に差はないし、教えが劣化したわけでもない。価値は絶対にあるのだから、腐らずにをいがけに徹したい。

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Okada Naoto
この記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。皆さんの時間に少しでも僕が関われたことが大変嬉しいです。次回の投稿もがんばりますので、よろしければ応援を。