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善い人である自覚と責任

 にをいをかけた人のお宅で剪定のひのきしんをさせてもらった。お礼にと五平餅を買ってくださったのだが、なんともいえない香ばしさに舌鼓をうった。

 ぼくは数年前まで植木屋で働いていたので、一応剪定の心得はある。以前お会いしたときに、話の流れでお庭の剪定をすることになったのだが、逐一切ったところを褒めてくださるので、とても気持ちよくひのきしんさせてもらえた。

いつもは旦那さんが剪定され、その後始末は奥様がされる。奥様がそれを愚痴られていたの
で、今回ばかりはとも思い、後始末までさせてもらった。

 この旦那さんはとても宗教が嫌いで、宗教なんてしてないで働けと言われる。奥様も同様に神様は信じない、自分の力を信じていると言われる。そんな二人が教務支庁の前でハッピ姿のぼくを車で拾っていくのだからおもしろい。

 これは驕りかもしれないが、とても良い印象をこの夫婦には与えたと思う。良くも悪くも善い人だと思われたはず。しかし、ぼくは善い人なのだろうか。常に人のために奉仕する心を持っているだろうか。見返りを求めない無欲の心でいられるだろうか。

諭達に、よふぼくとしての自覚というフレーズがある。ロでいうは易しだが、簡単なことではない。ぼくは初めてひのきしんを通しておたすけをさせてもらったが、それによって、公人といえばおこがましいが、見られ方を気にするようになったような気がする。

見られ方といっている時点でまだまだよふぼくではない。真のよふぼくは自分にスポットを当てず、困りごとに目を光らせているのだろう。

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Okada Naoto
この記事を最後まで読んでいただきありがとうございました。皆さんの時間に少しでも僕が関われたことが大変嬉しいです。次回の投稿もがんばりますので、よろしければ応援を。