人のために祈る心の豊かさ
愛知寮の近く(?)には愛町分教会がある。にをいがけに歩いていると
「私は愛町の信者です」という方とたまに遭遇することがある。
また、友達が愛町の信者さんで、一緒におぢばへ行ったことがあるという方もたまにおられる。
最近もそういう女性と出会ったのだが、とても素敵な方だった。自分の畑でできた野菜を近
所に配ったり、ボランティアに精力的に参加したりと、人助けを趣味にされているような方だった。
その方も人生の勉強にとおぢばに行ったことがあるそうだ。感想を伺うと、廊下がピカピカで庭もきれいにしてあってすごいところだったと言ってくださった。でも、ここで掃除している方が人のためになるかなと言われて、ちょっと反応に困ってしまった。
多くの人にとってはそれが常識だと思う。きっと、その女性は月次祭かなにかの団参に行かれたと思うのだが、そこでおつとめをして何になるんだろうという感じだろう。
月次祭に参拝されている天理教の信者さんも、26日だから来ているという人は少なくない。ただ、ごくわずかだが、本気で身上の平癒、事情の解決、または世界平和を願っている人がいるのもまた事実。
月次祭に集結した方の大半は別に困っている人、神様になんとかしてほしいと思っている人ではない。そういう人たちが、本気で困り果てている人のために祈る。
そういった助け合いの縮図を神殿内に表すからこそ神様は働くのではないかと、ぼくは思う。
あの女性もそういうふうに思って参拝してくださったら、きっとまた違った感想になったのかもしれない。
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