あるもので勝負
正直、お金がない。1年間の目標を達成するためなら安いものだと、全財産をお供えしてしまい、残っているのは小銭だけ。
基本的にお金をあまり使わない性分なので日常生活で困ることはないのだが、帰参が決まったことによって必要な経費が出てきた。
まず、基礎講座を一緒に受けるので、受講料500円。参拝にいったらちょっとくらいお供えもしたい。ご当地ラーメン「天スタ」もごちそうしたい。でも、それは無理。というか、自分の分を払うことも無理だ。
やりたいことは次々出てくるが、どれもできそうにない。
どうにかといろいろ考えていたが、財布からお金が湧いてくることはない。しだいに「ないものはない」と諦めがついてきて、あるものだけで挑もうと腹が据わった。
500円だけ握りしめていけばいい。本当に必要なら神様が与えてくださるだろう。
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にをいがけで歩いていたとき、ゴミが散乱しているところを通った。拾っていてもきりがないと、それを横目に素通りした。しかし、これがぼくの地元だったら拾ってきれいにしているはず。そう思い、戻って拾ってきた。
最近よく、地元に帰ったらどんなにをいがけを展開しようかと妄想を膨らませている。
自教会のあるところは非常に田舎で、わざわざ天理教だと言って回る必要がないほど周知されている。となれば、することはおたすけである。
老人ばかりの集落にはおたすけの種は山のようにあるので、どう解決していくか考えているとわくわくが止まらない。
地元に帰ったらやろうと思っていることが、愛知ではできないのだろうか。
確かに愛知は地元より都会で、行政も手厚い。おたすけの範囲は限定されてしまうだろう。しかし、それでも場所によって真実の込める量が変わるのは違うと思う。同じ量で、尽くす方法が変わるだけ。
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いまあるもの、居る場所。条件や環境に限りはある。ないものねだりではなく、あるもので勝負する。本当に必要なものは神様が与えてくださる。
この1年、全力で愛知を愛し、ここに住む人を愛し、陽気に勇ませたい。その真実が、地元で花を咲かすかもしれない。