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「帰国できなかった帰国子女」はいかにしてアメリカに復帰できたのか?

私の非・履歴書」を書いてからしばらく間が空きました。何人かの方からコメントを頂いた中に「帰国できなかった帰国子女体験」の部分につき詳しく読んでみたい、との要望がありました。

時代がだいぶ違うとはいえ、私同様に「帰国」体験のある方、あるいは今海外在住でお子さんをお持ちの方にとって興味のある話題だったようです。

前回はこの体験が自分の「現在」にどうつながっているか、に主眼を置いて書いたのでここではディテールの追加と、その長期的影響、特に自分の日英双方にわたる言語能力の形成過程について書くことにします。内容が一部繰り返しとなりますことをあらかじめご了承ください。

私は東京の生まれで、人生最初の5年間は今では「都心の飛び地」みたいになった大学のある街で育ちました。父の勤務先であった日本の製造業企業の団地に住み、教会系の幼稚園に通った記憶はおぼろげにあります。記憶が多少はっきりあるのはアメリカに着いた時点からで、東京からの直行便ではなくサンフランシスコ経由の飛行機でニューヨークに着いたことを覚えています。父が先に赴任しており、母と妹と三人で渡米したはずです。

1970年代のNYには既にそこそこ日本企業の駐在員はいましたが、家族帯同者は当時治安が極めて悪かったマンハッタンではなく郊外に住んでいました。最初の一年は他にも日本人家族が住むアパート暮らしでしたが、二年目からは駐在員世帯が集中して住むエリアではなく、少し遠い、それでもグランドセントラル駅まで電車で通勤可能な郊外のユダヤ系が多く住むハドソン川に近い「村」の一戸建てに住みました。

そこで幼稚園小学校ともにアジア人は自分と妹だけ、という地元の公立校に通いました。学校側も慣れておらず気を使ったようで当初自分と妹が「馴染めているか、英語を習得しているか」を見るためカウンセラーとの面談時間が毎週あったぐらいです。

二人とも幼かったので早々と英語での勉強生活ができるようになり、妹は日本語をほとんど話さない状態(家で僕が通訳していました)、自分自身も土曜の午前だけ「補習校」に通い日本語での授業を受けたもののそこでも日本人生徒同士はほぼ英語、と言った状態でした。

こう書くと隔世の感のがありますが、周囲のアメリカ人はまだ日本も中国も韓国も一緒くたにして「カンフーの国」ぐらいのイメージしか持っておらず、隣家のお兄さんに「カラテ」ごっこを挑まれたりしたこともあります。幸か不幸か、人種差別を受けた記憶はありません。

自分が幼く鈍感だっただけかもしれませんが両親もさほど感じたことは無かったと言っていたので、恵まれた環境にあったのでしょう。当時は知りませんでしたが、長じて聞いたところ父に至っては南部のとても保守的な州に日本から事業持ち込んで「名誉白人」みたいな扱いを受けたそうです。

人種問題も含め、アメリカの社会問題については子供の時は「お客さん」の立場、大人になってからは学生から一世代目移民という過程を経て「当事者」の立場、とある意味「甘ちゃん」な形ではありながら視点が変わってきたので複雑な考えと思いがあるのですが、それは別の機会に。

そんな悪くいえばのんびりした、よく言えば自然体でいられた環境で「アメリカの先進的地域で育った子供」として自然に習得したネイティブな英語を操る、自己主張と自己表現力を尊び、毎朝合衆国への忠誠を誓い行事の際には「星条旗よ永遠なれ」を歌う子供として育ったわけです。当時自分のナショナルアイデンティティについて意識した覚えもないので、特に「自分は〇〇人」といった自覚はありませんでした。

土曜の午前中だけ日本語補習校に通っていましたが、そこでも授業こそ日本語で行われていたものの同級生との普段の会話は英語が主体でした。漫画やアニメなどの日本のコンテンツがまだ出回っていなかった頃なのでそう言ったものをタネに話したり遊んだりした記憶もありません。

周囲とは見かけや風習も違うけどアメリカで普通に学び、遊び、生きる子供(生来内向的なので大勢友達がいる人気者、ではありませんでしたが)、程度の自覚だったのでしょう。駐在任期が終わり家族で日本に向かう際も「帰る」のではなく「生まれた場所だけどよく覚えてない国に行く」に近い感覚だったと思います。

そして案の定日本に「帰国」し、東京郊外の公立小学校の三年生に編入したら馴染めませんでした。ランドセルも持っていない、ジーンズの上下で通学する、人前での体操着への着替えを嫌がる、給食の準備や掃除当番といった習慣を知らない、話が込み入ると半分以上カタカナ言葉になる、といった表層的な「違い」で同級生から好奇の目で見られ何か「違う」言動をすると「ガイジン」と片付けられました。

何より違和感を感じたのは、「皆で同じ授業を同じ課程で同時に受け、一斉にテストを受ける」学習環境でした。アメリカでは多くの科目が同じ学年でも理解習得度別にグループ分けされ、先生の指導もグループを巡回してテーマと課題を与え発表させることを中心とした、生徒の主体性を前提としたものだったのでこれは当初恐怖感を覚えたぐらいです。

加えて編入時で漢字を知らない、九九を暗唱していない、鉄棒の逆上がりもできない、日本基準では「落ちこぼれ」なのに妙にはっきりと意見を言う「態度が大きい奴」だったので案の定イジメの対象となりました。皮肉なことに、2歳で渡米し在米時には殆ど日本語ができなかった妹はまだ幼かったため今度は英語を「忘れ」すんなり日本の学校に溶け込んでいました。性格の違いもありますがタイミングって重要です。

イジメ体験の詳しい話は割愛します。虐める側が飽きて「放って置かれる」ようになったことも含めメディアで見聞きすると昨今の日本のイジメに比べたら軽いものだったようですし、当時の自分のリアクションも思い出したくもないし、それを元にイジメ問題の解決に何か役立つ話もできません。

イジメが一番酷かった時期に担任の先生に相談したら実際の言葉はもっと優しかったものの「周囲に合わせないあなたが悪い」と言われ怒りとも悲しみともつかぬショックを受けたことを今でも克明に覚えてます。今となってはそのショックがその後の自分をかなり規定または呪縛したな、と自覚しています。

自分が社会人になってからやっと、あの先生はまだ新人だったので経験不足と参考例不足で「問題児」であった自分に対する返答に困った挙句だったのだろうな、と理解できるようになりました。

親も対処に困ったようですが一時期本当に落ちこぼれかかったのと、そのままイジメた生徒と同じ地元の公立中学に行くことを危惧したのでしょう。目的を「大学受験を有利にするため」にすり替えた疑惑もありますが、中学受験をして中高六年一貫の男子校に合格し「私立リセット」しました。

以上自分にとってははっきり言って不快な体験でしたが、その反面後の渡米とベイエリアでの活躍の基盤となるようなものを得た…と言うよりは固められました。

「非・履歴書」の方ではこの体験から得たものを3つ挙げました。

①「またアメリカに行こう」という思い。
②上を実現するための、英語力の維持・強化へのモチベーション。
③「日本国」と「日本人・日本出身者」を切り離して考える視点。

小学生時点の目線に立ち戻れば、①と③はまだ明確に自覚できるようなものではなく(できていた、と書いたら明らかに嘘になります)まだ「種子」か「萌芽」のようなものでした。ただ②については目的を自覚していたかどうかはともかく以下のような具体的行動として発現しました。

A. 父の米国出張の度に英語の本を買ってきてもらう。
B. ハリウッド映画やアメリカのテレビドラマ等を英語で見るようにした。
C. ほぼ毎日放課後は図書館で過ごし手当たり次第に読書。

AとBがその後役立ったのは、出張中の父の買う本は最初の頃こそジュブナイルの探偵小説や児童向け小説でしたが忙しいと空港の書店などで売っている「普通の本」、父が自分で読む政治スリラーやスパイ物、冒険小説が増えるようになりました。その後中学、高校、大学になってもその延長で好きなSFや推理小説を、同じ作者やシリーズで翻訳されているものを読み尽くしたらそこから先は英語で読んでいました。

映画やテレビも「〇〇洋画劇場」や「海外ドラマ」だったのでこちらも大人向け。その後中学に上がってから聴くようになった「洋楽」とも合わせ「聴く能力」はこれで培いました。

おかげで小学校低学年の英語が出発点ではありましたがそれなりの語彙と表現を身につけることができました。スラングやイディオム、あといささかマニアックな単語が多かったのは読んでいたジャンルがジャンルだったからです。ついでにアメリカのポップカルチャーの知識も蓄えたので20代で留学した時には一部領域に関しては周囲のアメリカ人に呆れられたぐらいです。

C. は直接英語ともアメリカとも関係ありませんが「学校に馴染めない」ゆえに「自分の興味に赴くままマイペースで学ぶ」ことを覚えました。学校のすぐ横にあった市立図書館(小さな分館でしたが)に毎日寄ってはちょっとでも興味を引いた本(もちろん日本語)は子供向けだろうが大人向けだろうが、分野を問わず読んでいました。現在起業家も含め、どこの誰とでも何の話でもある程度できる「芸風」はここが出発点です。

そんな濫読と鑑賞の中でいつしか「英語を忘れないため」の行為が「楽しむためのもの」に変化し、また「二カ国語でより多様なものが楽しめる」という捉え方に変わっていったようです。そうやってモチベーションが変化したことがその日本でしか教育を受けなかった割には「社会人レベルで困らない英語力」にまで発展することができた理由です。「英語学習」だけだったら多分中学・高校・大学受験・大学で「英語で楽ができる」程度で終わっていたと思います。実際楽できました。英検は受かりませんでしたけど。

「英語のインプット」ばかりで「アウトプット」すなわち「英語で自分を表現する」方の経験は社会人になるまではあまり機会がなく著しくバランスは悪かったのですが、インプットが十分あったので会話や文章でも「表現力の弱さ」を「語彙と知識の量」で補うことによって凌ぐ中でキャッチアップできました。中学で「SF研究会」を結成し、中高六年一貫校出会ったのを良いことに趣味に没頭し、日本語でしたが映画や小説の評論、そして小説を書いていましたので、「書くこと」に抵抗がなかったのも寄与しています。

後年スティーヴン・キング(早々に翻訳を読み尽くし新作を原書で読んでいた作家です)が自らの創作体験とモノ書き人生を振り返って書いた名著書くことについてを読んだ時、キングが「書けるようになるためには沢山読んで、沢山書くこと。近道はない。」と書いているのを読んで深く納得し、自分の体験を顧みて「読むこと」と「書くこと」は言語を問わず、時には言語の壁を越えて繋がる行為だな、と実感しました。

最後に「話すこと」について。

私は大学卒業後数年して「欧米の取引先」と仕事をするようになるまで「社会人の会話」はほとんど経験がありませんでした。いわゆる日常会話も、子供の時からすれば10年以上ブランクがあったので最初は決して流暢ではありませんでした。

それを乗り越えることができたのは「まず文章で趣旨・趣意を簡潔に、正確に伝えることができれば会話での多少の取りこぼしがあっても総体としてコミュニケーションは成立する」ことに気づき、さらに上記の「書くこと」についてはネイティブでも得意な人は少ないことを知ってからは逆に「武器になる」と自覚したからです。

その後MBA留学、経営コンサルティング、そしてスタートアップの経営と舞台と中身を変わりつつも日本と縁の少ない世界でそれなりにプロフェッショナルとしては(パーソナルについては本稿で語ることはやめておきます)成果を上げて来れたのもその「武器」ゆえです。

それらの場においては経営、ファイナンス、技術、業界、法律などの専門知識も培いましたが、何よりも「目的達成」に必要な知識を習得・整理し、伝えたいことをきっちり固め、相手の知悉度と利害・立場を考慮した語彙および表現を駆使して「言葉」で伝える能力、すなわち上の「武器」を磨き続けたのが大事だったと思っています。

この「武器」、多少形は違えど最初から持つ才能ある人、あるいはシステマチックな教育の結果身につけられる方もおられるでしょう。

私はそれを上記の通り「帰国できなかった帰国子女」体験を出発点にいささか変則的な形で身につけました。「たまたま」の要素もあり、回り道袋小路もかなりあったので何か法則が導き出せたり、再現性のあるものではなく、自分しか持たないユニークな能力でもありません。

ただ「自分なりに、自分のものとして」身につけたものであり、それを拠り所に今日に至っていることだけは確かです。

これが皆様にとって何か参考になれば幸いですが、それより皆様ご自身の「学び」について聞かせていただくきっかけになれば大変嬉しいです。

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