”今の詰まらない為事にも、この単調を破るだけの功能はある…” 森鴎外『あそび』における「あそび論」 - 忘れがたいことば
森鴎外の小説『あそび』より引用します。
主人公の木村は、明治時代の中央官庁の役人です。
ちょっと鴎外先生その人を想像させる設定です。
役人で、文士。木村は、応募脚本の選者なんかをしています。
”木村は文学者である。
役所では人の手間取のような、精神のないような、附けたりのような為事をしていて、もう頭が禿げ掛かっても、まだ一向幅が利かないのだが、文学者としては多少人に知られている。ろくな物も書いていないのに、人に知られている。啻に知られているばかりではない。一旦人に知られてから、役の方が地方勤めになったり何かして、死んだもののようにせられて、頭が禿げ掛かった後に東京へ戻されて、文学者として復活している。手数の掛かった履歴である。”
鴎外先生その人の履歴と、よく似ております。
ただし、鴎外は役人としても最後は、位人身を極めるわけです(陸軍軍医として)。
ただ、”軍医”というポジション自体の微妙さもまた、あるのでしょうね。
医者としても、軍人としても、なんか中途半端なところとか…
それはともかく、今回引用して論じたいのは以下のいわば「あそび論」です。
”木村はゆっくり構えて、絶えずこつこつと為事をしている。その間顔は始終晴々としている。こういう時の木村の心持は一寸説明しにくい。この男は何をするにも子供の遊んでいるような気になってしている。同じ「遊び」にも面白いのもあれば、詰まらないのもある。こんな為事はその詰まらない遊びのように思っている分である。役所の為事は笑談ではない。政府の大機関の一小歯輪となって、自分も廻転しているのだということは、はっきり自覚している。自覚していて、それを遣っている心持が遊びのようなのである。顔の晴々としているのは、この心持が現れているのである。”
”(…)兎に角木村のためには何をするのも遊びである。そこで同じ遊びなら、好きな、面白い遊びの方が、詰まらない遊びより好いには違いない。しかしそれも朝から晩までしていたら、単調になって厭きるだろう。今の詰まらない為事にも、この単調を破るだけの功能はあるのである。
この為事を罷めたあとで、著作生活の単調を破るにはどうしよう。それは社交もある。旅もある。しかしそれには金がいる。人の魚を釣るのを見ているような態度で、交際社会に臨みたくはない。(…)”
いかがでしょうか。
鴎外先生の心境が、この小説にある程度投影されているとしたら。
鴎外先生クラスの筆力になると、読者はうまい具合に引き込まれて、小説の主人公と鴎外その人をつい同一視してしまうのですが、そう簡単でないかもしれません。
それでも、木村すなわち鴎外その人である、という部分もなくはない気もする。
この「あそび論」、いかにも鴎外先生らしい、怜悧なスタンスではありませんか。
これがすべて本音とは申しませんけれども、半分くらいは本音かな、と睨んでおります。
どうも鴎外は、官吏として充実していないと、文学でも調子が出ないところがあったようで、車の両輪のごとく、役人生活と文学の両方とも大事だったらしいのです…(松本清張『両像・森鴎外』による)。
それはともかく、”仕事オンリー”あるいは”あそびオンリー”では、木村(鴎外)の言うように、たしかに”単調”かもしれない。
そうなると、「今の詰まらない為事にも、この単調を破るだけの功能はある」のかもしれません。
かの鴎外大先生すら、こういう心境だったとするならば、自分のごとき凡人が、ガタガタ言っている場合ではありません。
せいぜい金稼ぎにも励み、余暇というか自分の時間も生かしていかなければなりません。
どちらか一方だけでは単調に陥る、だから金稼ぎも必要 (必要悪)だ。
こう思って、あすも精々、稼ぎますか。
森鴎外先生の著作には、十代の終わりから親しんでおりますが、まだまだ卒業とは参りません。
『カズイスチカ』もそうですが、この『あそび』ともども、何回読んだかわからないです。
彫琢された日本語の裏に、熱い思いとか情念が隠れているのが鴎外の文学だ、と自分は思っています。
上っ面はクールで、中身は熱いんですね。ツンデレ的と言いますか。
なんか、最近投稿している指揮者ジョージ・セルの音楽と似ているぞ…
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