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アッシュバートンから

雪面にうつる、溶けかけの夕陽


その灯自体どこか不安げで、ぼんやりと漂っている。
しかしその中で光る這いつくばるような強さに惹かれなぜか安心感を感じてしまう。

日本にはそういう灯が多くあるように感じます。物質的にも、感情的にも。




ポジティブとネガティブってあって世間的にはポジティブの方が推奨されてると思います。
物事を美化して明るく捉えた方が、楽な気がするし、精神的ダメージが少ない。
いわば「目標」みたいなものがあるから、それさえ定義すればやり方もわかりやすい。
圧倒的な強さみたいなものがそこにはある。
だから、SNSではポジティブを謳う人の方が多いし、そっちの方がキラキらして見える。


一方ネガティブは、自分のことや物事の本質をじっくりと考えることが多いと思うんです。
そして、行きすぎてしまうと、悲観的な個人の思い込みや、被害妄想になって、灯を見つけられずに、暗闇に呑まれてしまう。
ボーダーラインがあやふや、かつ、とんでもないエネルギーを使います。
そしてポジティブの強勢な光を前にするとどうしても、見えなくなってしまう。


でも私には、そんな地味でしんどいことにエネルギーを使ってまで、自分の感情に目を逸らさずに、本質を掴もうとする姿に、とても美しさを感じるんです。

ポジティブの押し売りで本質を塗装されてしまうことが個人的に苦手ですし、
今の時代、見ないようにして生きた方がハッピーになれると思うからなおさら。

誰かが言っていたのですが
『背徳という美徳』と表現するような。


日本ではそういう美しさを感じることが多い気がします。
暗闇の中にある街灯みたいな、
過激ロックバンドが歌うバラードみたいな、
人工物の中にある一定の冷たさに、垣間見える少しの希望が、なぜか癖になって、つい入り込みそうになってしまう。


「見渡せば 花も紅葉も なかりけり」
秋の景色を存分に想像させながらも、最後にこれを消し去ってしまう。
消し去ることによって、創造性や愛おしさが掻き立てられる。

以前、初めて茶道を経験させてもらった時に、一輪の花と、小さな机、素朴な部屋の作法の中で、感じたことを思い出した。
私には、日本の淡々とした現代社会の中でさえ、そんな美しさを「みしみし」と感じるのです。




一方ニュージーランドでは、ポジティブもネガティブも関係ない気がします。

私が住んでいた南島では、もっというとアッシュバートンという田舎の牧場では、人工物やルールが少なく、自然が圧倒的に多いんです。
山があって、風があって、虫がいて、動物がいて。

自然という本質の中に剥き出しの自分が立たされている。

何かを考える前に来るのは、地球の美しさに圧倒された、体の五感反応。
まっさらな自分 対 12頭の雄牛 みたいな状況の時に、とっさに殺気を体中から出して、対抗するような。
自分自身や、本質を考える前に、体の五感がやることを知っているんですよね。



そして今の私には、それが必要だと思うんです。
日本の美しさを感じるにはある程度の強さがないと、すぐ暗闇に飲み込まれてしまうんです。
そして私には暗闇の中で灯を見つけられるような、タフさはまだ持ち合わせていない気がするから。


思う存分、感覚を研ぎすませてまた帰ってきます。

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