牧場物語、命、そしてその先。
マタギとは、日本の東北地方・北海道から北関東、甲信越地方にかけての山岳地帯で、古い方法を用いて集団で狩猟を行う者を指す。
獲物は主にクマである。
2021年の8月、ニュージーランド。
私の手は赤く染まり、細かに震えていた。
静かな草原の奥で、怖いぐらい鮮やかな夕日がもうすぐ沈もうとしていた。
目の前に横たわってるいる牛のお腹には、出産日をはるかに超えた子牛がいた。
近づけば、その腐った子牛が放つ異臭で泣き出したくなるほどだった。
ファーマー界では「over cooked」と呼ばれる。直訳すると、煮過ぎた、加熱し過ぎた。
1800頭近くの乳牛を大草原で放牧し、わずか10人余りで世話を見る私たちの牧場で、見落としはよくある。
母牛だけでも助けるために、必死にお腹から掻き出そうとするが、ゼリー状となったその子牛だった物体は、驚くほど脆い。
ボスは「獣医を呼ぼうか」と検討した私たちの顔を10秒ほど見つめて、携帯で母牛の生産性をチェックした。
頭を二、三回かきむしって、下を向いたまま「彼女はもう十分だ。」と言い放った。
私のボスは、牧場で生まれた根っからのファーマーだ。
彼のクレイジーさにはよく目を回すことがあったが、経験値もなければ、英語も喋れないこんな小娘を雇って、1から育ててくれた恩は忘れてない。
「牛をよく見ろ、牛の気持ちを考えろ、それが成功の鍵だ」と言っていたのを思い出した。
彼はテキパキと指示を出し、母牛がなるべく苦しくないようにみんながそれぞれの仕事に取り掛かった。
次の朝には彼女は灰になる。お肉にもなれず。
生死を決めるのは、携帯にある少しの情報。
その時、私はこういう世界で働いているのだ。と強く理解する。
それでも帰り際に見た、母牛の消えかけの目は今も忘れることができない。
誰も悪い訳ではない、牧場長にも従業員にも生活があり、どんだけ可愛くても彼らはペットでは無いことぐらい2年間の勤務で散々知ってきたはずなのに、
透き通った悲しみとは違う、奥底にある喪失感、悔しさが私を襲った。
喪失感の正体を知ってしまったら、なぜだかもう元の「安全な世界にいる自分」には戻れない気がして、見えないふりをずっとしていた。
こう、うまく言葉に表せれないのだけれど、私はそこまで強くないとずっと思っていた。
正体
翌年の4月、友達がハンティングに連れ出してくれた。
初めてのハンティング、いわば、初めての自然の中での宿泊だった。
ハンターのジェイは20−30kgある荷物を背負っているにも関わらず、まるで道があるかのように急斜面の茂みをペースを落とすことなく、ぐいぐい進む。
その姿が本当に楽しそうで、着いていくのにぜいぜい言いながらも笑みが止まらなかったのを覚えている。
彼は無愛想で、ワイルドで、口を開いたかと思うと、私をからかってくるけれど、動物の在り方を本当に大事にする。
そこに垣間見える優しさが、山では一層際立っていて、私は二年間知らなかった『彼の芯』を知れた気がした。
広大な自然の中にお邪魔するときには、よく聞き、見て、感じる。自分が小さいことを知り、彼らの舞台を尊敬する。
自然に生きる大先輩の鹿を相手に勝負を仕掛けるということは、辛抱であり、一種の強さ、であり、調和であると思った。
そして仕留めた鹿をいただくときにあふれる感謝は、本能からくるそのままの感情だった。
そんなことを教えてもらった。
人間も、動物も、自然も、対等に生きていた。と感じた。
だからこそ
この世界の都合で生まれ、効率化のために何にもなれずに殺されていく母牛の命を知ってもなお、なすすべがない自分をとても哀れに感じた。
そのせいの喪失感だったのだと、思い知った。
気づけばインターネットで狩猟について、むさぶるように調べていた。
自分も狩猟免許を取って、山に入りたいと思った。
でも形だけでは、私の喪失感を拭えないだろうと思いながらみていると、
「クマは見せ物じゃない、山に入るのは生活のリズムの一部だ」
そんな一文に魅せられ、出会ったのが日本の狩猟民族「マタギ」だった。
彼らは熊(ツキノワグマ)をメインに狩猟をしながら生活を営んでいる。狩猟を始める11月には雪が積もり始めるところも少なくない。
そんな厳しい山の中で巻狩りと言われるチームワーク戦を主に、命懸けで狩りを進める。
彼らの山に対する敬意、信仰心。まるで動物的な武勇伝。文化。
それらを知っていくと同時に「おとぎ話」のようなワクワクを感じていた。
狩猟がブームとなり、ゲーム感覚で獲物をゲットする人が増えた中で、
「死ぬかも知れない」という緊張感を持ちながら、それでも調和を大事にするマタギの文化に一層惹かれた。
「おとぎ話のまま終わらせたくない」知らなければならない、と強く思った。
マタギ
さらに年が明けた一月、私は秋田県角館の駅に降り立っていた。
日本に帰国してから都市部にいた私は、無人駅の真っ白な世界に興奮し、澄んだ空気を思いっきり吸いこんだ。
一車両しかないローカル線に乗り、マタギの発祥地域「阿仁」を目指した。
電車の窓に張り付くように、外を眺めていると、クリームのようになめらかな雪の上に一本の足跡が連なっていた。うさぎだ。
山に行った時、ジェイに一通り動物の形跡の見分け方を教えてもらった。
教えてもらったというか、動物の糞を見つけた時に目の色が変わる彼に私は感激し、うざったいぐらいに質問し続けたからだ(笑)
うさぎは、前足が縦に二個最初につき、後ろ足は同時についてジャンプする。(だった気がする)
圧倒された。
私にとっては異世界の中に暮らしている生き物がいる。
そしてそれを糧に1000年も前から生を営んできた人々の存在がある。
一筋のうさぎの足跡を見て、彼らと同じ場所にいられてることを実感し、血が騒いだ。
船橋さんは、快く私を向かい入れてくれた。
10年前にここ、北秋田市阿仁根子で改築したという自宅は、木を主張とした温かいお家。焙煎所が隣接された、コーヒーが香る家の中にはマタギの本、そして彼が作ったという本「根子の本」が飾られていた。
元々写真家の船橋さんは、マタギを撮りたいと思っているうちに、根子に移りすみ、自らもマタギになったそうだ。
私にとっては、ものすごいことをしているのに、まるでそれが必然であるかのように語る。
その悠然とした佇まいに感動し、
溢れ出る吐息と共に、思わず「かっこいいいなあ。」ともらしていた。
伝統、調和、新たな時代に差し掛かろうとしている中で守り抜くもの、そして変えていかなければならないもの、変わってしまったもの。
私は記者でもジャーナリストでもないので、得た情報を着実に面白くかけるわけではないし、それが私のやりたいことでもない。
今回話してくださったことも、興奮するあまり全部書き連ねそうになったのだが、考えた末に、ここに書くべきとは思わなかった。
私が今回感じたことは本当にほんの一部で、それを堂々と知ってるかのように発表するよりは、彼のホームページや、本をぜひ読んでほしい。
私が出すちっぽけな情報よりは、実際に行って肌で感じてほしい。
それでも突然押しかけてきた訳もわからない小娘に「ナオさんにもクマの胆のうをぜひ食べてほしかった」と駅まで送ってくれた車の中で言ってくれた。
「また秋に来てくれたら、山を案内します。」
ただただ嬉しかった。それは、マタギの情報を得れたことでも、狩の方法を知れたことでもなくて、
彼が聞かせてくれる、小話の中にある「生活」を感じられたからだ。
阿仁のことは、根子のことは、多分0・001%もまだ知っていないのだけれど、今回彼らの暮らしを肌で感じられて、私の人生はまた違うものになると思う。
何がどうやってか、はわからないのだけれど、はるか9000km離れたニュージーランドの生活の中で、船橋さんがおっしゃってたことが頭を「ふ」っと、よぎることがあると思う。マタギの存在が、導いてくれることがあると思う。
正解が見えない生の中で、彼らが大事にする「調和」が私を納得させてくれるのだと思う。
写真家の星野道夫さんは、カリブーの大群がアラスカ大陸を駆け抜ける姿をみて「何かに間に合った気がした」と説いた。
その言葉を自分の中でどう吸収していいか、ずっとわからないでいたが、ニュージーランドの大草原で朝日を見た時に、これが入り口なのかもしれないと思った。
そして今回、秋田でのうさぎの足跡を見たときに、船橋さんの話の中で息づく生活を感じたときに「何かに間に合った」がをものすごく近いものにしてくれた。
いつかちゃんと経験したい。そんなふうに思った。