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自分の経験を、ただ「望ましいもの」として伝えることの危うさ

今から約10年前かな。
初めて「ペイン・リハビリテーションを生きて」の草稿を麻酔科主治医に読んでいただいた時、一カ所だけ削除を求められたところがありました。

・・私としては、事実を綴っているだけなのに何が問題なのか分からず、腑に落ちず。
「何故?」といぶかしがる私に、先生は「この原稿を、私の担当する他の患者さんが読んだら、どう感じるか」を考慮した、と諭してくださいました。

・・医師として、患者さん皆に同じ対応はしないし、出来ないということ。
治療内容も、語る言葉も、ケースバイケースであるということ。

ハッとしました。
そこで初めて、私は、自分の経験を、ただ「望ましいもの」として伝えることの危うさに気づいた気がします。

良くも悪くも、それまでの私は「見て見て、すごいよー」と、自分の闘病の記録が本になるということに舞い上がっていました。

でも、先生からの一言をきっかけに、あらためて、自分が置かれた恵まれた治療環境と、それが叶わない多くの患者さんの現状に思いを馳せることとなりました。

診断にたどり着くまでに数年を要している患者さんなんてざらにいる、心の問題だと一蹴されて医師にまともに取り合ってもらえない患者さんもいる。

私は、自分の頑張りで回復した訳ではなく、たまたま幸運に恵まれたサバイバーであったのだ、と自覚したのもこの時です。

 安易に「こんな素晴らしい医療従事者がいたよ、こんな方法で良くなったよ、あきらめないってすごいよ」で片付けてはいけない。

それは、他の医療従事者ー患者さんの関係性の中で、「私はそんな事してもらえなかった」あるいは、「とても患者さん全てにそんな対応は出来ない」というマイナスの思いに繋がる可能性がある。


経験そのものを伝える事を目的としない。
「感情をそぎ落とした時に残る、普遍的な問いや気づき」を伝える手段として、経験を利用する。

・・先生からの指摘は、その後、私が痛みについて語る場をいただいた時の思考の核となりました。

今までの人生で、私はCRPS以外のリハビリを二回経験しています。
ひとつは、左腕の骨折手術後のリハ。
もうひとつは、甲状腺癌術後の反回神経麻痺に対する嚥下と発声のリハ(担当は言語聴覚士さん)

どちらも(良い意味で)大きく感情が揺さぶられることもなく。
担当の療法士さんに提示される課題をがんばり、予想される期間内に無事回復して「ありがとうございました」とリハ卒業するとこができました。



私は、CRPSが「優秀な医療従事者と、医療従事者のやる気に火をつける患者との出会いが織りなす感動の物語」の中で「症例報告のレベルで回復する」病ではなく(それはそれで素晴らしいのは間違いないけれど、でも)、特段、講演のネタにも本のネタにもならないぐらい、普通に診断され普通に治療され普通に回復してゆく病となる未来を夢見ています。

だから、n=1の症例報告よりも、n=多数の、味もそっけもない論文のデータの方に感動してうるっとしたりするのかな(^_^ゞ




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