小林賢太郎氏の解任に関して

今回の小林賢太郎氏の解任について、私なりの意見をここにまとめたいと思う。

「まだ、そんな事考えているの?」という向きもいるだろう。しかし、開会式の前日の朝から、この件について考え続けている。何故なら、小林氏の解任は不当だと思うからである。そして昨夜、開会式のある意味での「成功」を目にして、さらにその思いを新たにし、小林氏の今後を考えると、何も解決していない、と思うからだ。

高橋浩祐氏の記事を読んだ時点で、まず感じたのは不快感だ。小山田圭吾氏の件への便乗感が否めず、「何故いまなのか?」「20年以上前のコントライブでのセリフで?」と思った。しかし、それを差し引いても、この記事の舌足らずさに、以前、短期間とは言え、報道に関わっていた端くれとして、腹が立った。後に高橋氏はご自身のTwitterに「この記事を書けば、国際的に波紋を起こすのは分かっていました」と書いているにも関わらず、世界に向けて正確に説明する義務を怠っている。

何にせよ、この記事では、どんな判断を下すにも材料があまりに足りな過ぎた。少なくともそのコントを観てみなければ、とコント全編の動画を見つけて観てみた。(このコントの問題の箇所の10秒ほどのみを切り取った動画も出回っていたが、それを観て「言語道断だ!」と騒ぐなど、まさに言語道断の極みだ。物事の真価を判断し、人を断罪するときに10秒の動画で十分だと思っていること自体、とても危険だ。)

さて、実際にコントの問題の箇所を観た私の感想は、「どぎついな」というものだった。しかし、同時に「これによって断罪されるのか」という違和感を強く感じた。

まず、諸々の判断を行う前に、「これはライブ・パフォーマンスだった」ということを忘れてはならないと思う。そして、もちろん、その後、パッケージ化されて販売されたことも覚えておく必要がある。

コント全編を観て、「ユダヤ人大虐殺ごっこ」など言語道断だからこそ採用したのだという、小林氏の意図を感じた。(これは、私が小林氏のコント作品を数多く観ており、彼の作品作りへの姿勢を私なりに理解していたからだろう。)しかし、同時に「扱い方が雑すぎる」という印象を持った。「何を考えているんだ。そんな企画、絶対にあり得ない。」という、トダさんの強い全否定とセットでなくては成り立たないと思った。「あり得なさ」が強いほど大きい笑いに繋がる」というユーモアの特徴を知った上での「ユダヤ人大虐殺ごっこ」であり、その犠牲者の多さゆえの、「人の形に切った紙がいっぱいある」だったのだが、ふんわりと「トダさん、怒ってたなあ」で回収してしまった事は、「ユダヤ人大虐殺」という歴史的惨事をコントに組み込む者としての覚悟の決定的な欠如と取れる、と私は思った。そもそも、シナリオ通りだったのだろうか、と疑問に思うほど雑で、ライブのノリによるものだったのではないか、という擁護したい気持ちも生まれた。しかし、その後、パッケージ化して販売されているので、その可能性は薄いのかも知れない。
この点に関しては、小林氏自身、今回、「思うように人を笑わせられなくて、浅はかに人の気を引こうとしていた頃だと思います。その後、自分でもよくないと思い、考えを改め、人を傷つけない笑いを目指すようになっていきました。」と謝罪文に記している。

そして、今回、このコントが世界に「受け入れ難い事」とされた要素のひとつに、「それを観客も笑っていた」という点も含まれている。多少大げさに言うと、「小林氏が観客を啓蒙した恐れがある」という点だ。実際はどうだったのか。この場面がコントの中盤だったため、そもそも「大好きなラーメンズのコントを楽しむぞ」と集まった観客は、この時点ですでに前のめりに笑う態勢が整っていたと思う。このオチに対しても、実際、大きな笑いが起こった。しかし、たぶん何を言われても彼らは反射的に笑っただろう、と私は思う。絶え間ない笑いの連鎖で空気を作り、観客を引き込んでいくこともコントの醍醐味だ。しかし、同時に、怖いところだ、と私は常々思っている。私も、笑った後、「反射的に笑ってしまったけれど、今のは笑うべきではなかった」と後悔することがままある。

つらつらとここまで考えて、やはり今回の「告発」と「解任」はミスリードと過剰反応による悲劇でしかない、という結論に至った。小林賢太郎氏の20数年前の不適切な言動について、感情論ではない検証が行われ、周知されるべきだったと思う。実際、「サイモン・ウィーゼンタール・センター」のエイブラハム・クーパー氏は「どれだけ創造的な人物であろうと、ナチスによる大量虐殺の犠牲者をあざ笑う権利はない。この人物が東京オリンピックに関与することは600万人のユダヤ人の記憶を侮辱することになる」としているが、小林氏は決して「犠牲者をあざ笑」ってはいない。使用の仕方は不適切ではあったが、「あざ笑ってはいけない」という常識が前提にあるからこそ使用したという経緯は明確である。さらに、今回の騒動を受けて、小林氏は「辞任」ではなく「解任」されている。その対応はあまりにも迅速で、内容の精査が丁寧に行われたのか疑わしくもある。彼を選考したJOCも、一時は適任だと思ったのだろうから、その任命責任も含め、なんらかのコメントがあって然るべきだが、誰も表立って彼を擁護することはなかった。菅首相に至っては「言語道断」というやけに攻撃的な表現を使って切り捨てるのみで、「ああ、この人、またこの騒動の本質のなんたるかを知らないまま感情的に発言しているんだな」という印象しかない。

今となっては、人々の記憶の風化を待つしかないのだろうか。
小林賢太郎という人物の今後はどうなってしまうのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?