見出し画像

差別主義者がいない世界なのに

この社会で「私は差別主義者だ」なんて言う人はいない。
いるのは、「あなたは差別主義者だ」と言う人だけだ。

意見を言うことすら差別になる

最近、女優の橋本愛がトランスジェンダー女性が公共施設を利用することに関してストーリーに一意見を書いたところ炎上し、結局謝罪した。

「入浴施設や公共のトイレなどでは、体の性に合わせて区分する方がベターかなと思っています。もしかしたらLGBTQ+の方々にとっては我慢を強いられるような気持ちになるかもしれませんし、想像するととても胸が痛くなります。けれど私は女性として、相手がどんな心の性であっても、会話してコミュニケーションが取れるわけではない公共の施設で、身体が男性の方に入って来られたら、とても警戒してしまうし、それだけで恐怖心を抱いてしまうと思います。そんな態度をとって傷つけたくもないですし、その制度を悪用した犯罪が発生することは絶対に阻止しなければならないと思います。」
橋本愛さんのストーリーの内容

これに関して擁護の意見は多かったが、それでも「間違ってる」「差別だ」「ヘイトに加担してる」といったコメントもたくさん見られた。

また、スポーツ界ではトランス女性が「女性」として大会に出場し、身体は男性であるという有利な条件で、優秀な成績をおさめている例がたくさんあるが、口に出して反対しようものなら「差別主義者」と言われスポーツ界から抹消されかねない。

私は普段、どちらかと言うとリベラル側の意見に賛同することが多いし、LGBTQ+の方々に偏見やネガティブな印象を持っているわけでもヘイトがあるわけでもない。同性婚にも大賛成だし、大学ではマイノリティについてや多様性について学び、みんなが生きやすい社会になったらいいなと心の底から思っている。

が、このトランスジェンダー問題に関しては正直「自分はこうだと思う」と言いづらい。異論を唱えようものなら、ヘイトの気持ちが全くなくても「差別主義者」のレッテルを貼られてしまうからだ。

そもそもこのような「差別」は完全なド偏見や妄想から来るのではなく、生きてきた環境や経験値から培われる。自分の過去の経験から「世の中には怖い男性もいるから気をつけなさい」と脳から危険信号が出るよう学習したのであり、生き延びるためのある種の防衛本能だとすら思う。

差別をしているというよりは、脳からの危険信号を無視していないだけ、本能レベルでどうしようもない気持ち、という感じ。

そういう意味では人間は誰しもこの気持ちを持っていて、これを差別だと言われるのなら、人間は皆差別から自由になることはできない。

トランスジェンダーは1種類じゃない

LGBTの中でも、
L(レズビアン:身体は女性で心も女性、恋愛対象も女性)、G(ゲイ:身体は男性で心も男性、恋愛対象も男性)、B(バイセクシュアル:恋愛対象が男女どちらも)までは、性自認と身体の性別が一致しているため、比較的わかりやすい。

わかりにくいのは、T(トランスジェンダー)の定義だ。

トランスジェンダーには、たとえば「身体の性別が男性だけど、心は女性、だから違和感を感じて苦しい」と言って身体的にも女性に近づけていく、という身体の性別と心の性別が違うタイプもいれば、「身体の性別と心の性別に違和感はないが、性別だけ変えたい」というタイプもいる。「平日は男性として過ごし、週末だけ女装して過ごしている」タイプもトランスジェンダーだし、「女性用下着をつけている男性」もトランスジェンダー。

そう、トランスジェンダーの範囲はとても広いのだ。

今議論になっている「LGBT理解増進法」では、このトランスジェンダーの方々が性別を変更したいと言えば、戸籍の性別を変更できるようにする、という内容も含まれる。

例えば、性別変更が可能なのは「身体と心の性別が一致せず、違和感を感じている」場合のみ、のように区別しなければ、普通に(身体も心も)男性だけど戸籍上女性になり、女子スポーツにガチ参加するが、公共施設は心体的な男性側に入る、とかいうカオスな社会になりかねない。

これはシスの女性側が「嫌だなあ」と精神的な苦痛だけで済む話ではなく、体格の差から怪我をしたり犯罪に巻き込まれたりといった、身体的リスクや命の危機にも繋がりかねないし、スポーツでは圧倒的に不利になる。

誰もが生きやすい社会など存在しない

私の場合は、今ですら公共のトイレに入る時はまず隠しカメラがないか確認してしまう癖があるし、女子風呂にベリーショートヘアの掃除係の人がいた時は男性と勘違いし(これに関しては私のせい)、その人の動きを常に警戒してしまい不安で落ち着かなくなった。

だから私は正直なところこの議論に反対とまでは言わないが、もし当事者の方々が本当に身体性ではなく心の性で判断して公共の施設を使いたいというのであれば、条件付きかなあ、と思う。公共の女子トイレや女子風呂に「(身体も心も)男性」が入ってくるのではないか?という不安があるからだ。逆も然りだと思う。

いくら公共の場とは言え、都会の真ん中のトイレなど人が多い場所ならともかく、人の出入りが少ない場所、時間帯など、すぐに助けが呼べない中、悪意のある普通の変態男性が入って来ないとも言い切れない状況で、見た目だけで「この人は心は女性なのだろうか?」など考えている暇はなく、どうして安心して公共施設を利用できるだろうか?

「こちらを立てればあちらが立たない」というように、誰もが生きやすく住みやすい社会なんて作れない。全てのことで自分の生きたいように自由に生きるなんてことが許されているのは、ごく一部の特権階級だけだろう。

「どうせ多様性はマジョリティの許容できる範囲まで」と言われてしまうだろうが、この世界は性別だけのマジョリティマイノリティではない。私たちは皆、生き方も特徴も全てが唯一無二で、どこかのマジョリティでありどこかのマイノリティだ。

余談だが、私は足に10cmぐらいのタトゥーが入っているからそのへんのプールは行けないし、銭湯も全力で隠して入っている。それはルールだから従っているというより、タトゥーを見て「怖い」と感じる人がいた時のための私なりの配慮だ。

だから、トランス女性の女性用公共施設の利用についても、例えば身体と心の性別が逆の場合に限り、かつ他の利用者が少しでも安心できるよう服装などの外見を寄せるなどの配慮が必要になるだろう。これは差別ではなく、公共の場をみんなが安心して利用するための区別であり、トランス女性自身を守ることにもつながると思う。

「自分が自由に生きたい」と言うからには他人に対しても「あなたも自由に生きて良いよ」と言わなければいけないが、そうして全ての人間に自由を認めたら全世界で犯罪が増え、騙し合い、殺し合いが起きる。

結局、多様性とは言ってもこの世界で生きるためには、みんなが何かを我慢し合い、お互い少しずつ妥協点を見つけ合い、許される範囲内で生きていくしかないのだと思う。

誰もが生きやすい社会なんてもの、最初から存在しないのだ。

この世界に差別主義者なんていない

この議論の中で一番残念なのは、最初の橋本愛さんのように差別している意識はないのに「差別主義者」と言われ口を閉ざされてしまうことだ。

みんな、全ての人に優しく、生きやすい世界にしたいと思っていて、最大限の配慮と理解をしているつもりだ。それでも時に誰かを傷つけてしまうこともある。

誰も「差別がしたい」と思ってしているわけではない。

「怖い」「不安」という純粋な防衛本能から出た小さな意見を「差別だ」と騒ぎ立て、「理解が足らないから怖いのだ」と抑圧され、誰も本音で意見が言えなくなる社会で、誰が生きやすいだろうか。

全てを「多様性だから」という理由で片付けてしまっては、せっかくの意見もいずれ出てこなくなり、議論すらできなくなるのはとてももったいないなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?