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パヤオの才能とAIの限界

つい最近ChatGPTとか言って、人間と同じような文章力をAIが返すようになったと思えば、今ではGenerativeAIによって文章以外にも音楽、画像、動画、翻訳、、様々なものを一瞬でAIが創り出すような時代になった。

私たちは「クリエイティビティ」に対する向き合い方を1から考え直さないといけなくなり、各産業レベルでも大きな変革が起こるだろう。

ただ、私は最近ジブリにどっぷり浸り、美術館に行ったり映画鑑賞をしたりインタビュー記事を読み漁ったりする中で、パヤオの想像力に圧倒されてしまった。これは、パヤオ以外の誰にも創れないだろうなと。

例えば、最新作『君たちはどう生きるか』は、タイトルだけは吉野源三郎著の名作と同じだがコペル君もおじさんも出てこなければ、話も全く違う。かと思って、児童文学の『失われたものたちの本』も読んでみたが、これともまた話がところどころ違う。

『ポニョ』はアンデルセン童話の人魚姫が元になっているのだろうが、姿形から物語、細かい設定まで、全く違った新しい作品として生まれ変わっている。

『風立ちぬ』も、堀辰雄の実体験に基づく小説と、零戦を造った堀越二郎の人生を綺麗にくっつけて1つの物語を完成させている。

他のパヤオの過去作も全て、パヤオでしか作ることができない唯一無二の作品だ。彼はただ原作の文章を映像化するだけでなく、形、色、声、構成、、全てにおいて自身の哲学を持って、オリジナルの世界観を新しく作り上げているから。

彼は「戦闘機は好きだけど、戦争は大嫌い」という矛盾した独自の哲学を持っていて、作品によく飛行機や戦闘機を登場させるが、同時に、戦争や争いに対して強く反対するような意思も示している。

また、子供たちの自然離れを懸念して、作品の中には自然(草木、火、風、水)を目に見えるように大袈裟に登場させることで、他に類をみない「ジブリの世界観」を確立させた。さらに、その生命の根源である自然を人間が破壊している危機感も同時に作品に多く反映させているのも特徴だ。

AIは、過去の膨大なデータからパターンや構造を学び、新しい作品を作り上げることに長けているが、パヤオのように人生をかけて得た独自の「哲学」と、飛躍した「想像力」という観点で見るとまだまだ難しい。こういうのって、「学ぶ」というより感覚だったりセンスだったりするから。

私たちが今後AIと向き合う中で、表面的なクリエイティビティだけを追い求めるのであれば、すぐにAIに取って代わられるだろう。が、いわゆる「ジブリっぽい」作品は創れても、本物のジブリは創れない。

私たちが独自の哲学を持って、それをそのまま作品として表現しようとする行為は、やはりいろんな経験をして深く考え抜いた人間にしかできない神秘的な所作だと信じたい。

そもそも、作品というのは結果が全てではなく、作者は創り上げる過程に楽しみを見出すのであって、観る側はその過程を想像し意味を考察することに面白さを見出すのであって、一瞬で魔法のように出来上がってしまっては意味がないのだ。

逆に言えば、私たちがただ小手先の技術の向上だけに目を向け、完璧に何かを作り上げたとしても、その根底に意味や独自の思想がなければAIと変わらない。作品そのものの完璧さより、いかに自分の心にある想いや思想を作品に表現できるかが重要だ。

だからこそ、私たち人間は技術だけでなく人間性を磨かなければならない。毎日を脳死で生きるのではなく、物事を深く考え、自分なりの信念を持って、素直に生きなければならない。

だから完璧じゃなくていい。紆余曲折したり、作者が悩んだりしてやっとの思いで創り上げ、またそれを観る人によって感じることが十人十色。賞賛もあれば批判もあって、「なぜ?」「なにこれ?」と、どんどん想像力を掻き立てるような、人間っぽさや泥臭さ、遊び心、その絶妙な不完全さにこそ、理想的なクリエイティビティが宿るのではないだろうか。

知らんけど。

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