流れ、流され生きるコト
ぼーっとしてても時間は過ぎるし
あくせく働いても時間は過ぎるし
のんびりリラックスしてても時間は過ぎる
なんだかんだ時間は
いつのまにか過ぎます。
そんな時間をどんな時間にするのは
その人その人に与えられた権利で
どう描いて、どう考えて、どう行動するかは
その人それぞれです。
いろんなモノに
人はそれぞれ、流れ流され生きてるけど
どんな風に流されたいか?
そう決めれるのも自分であり
でもそれは
どんな風に流されたいだろう?
そんなコトを
心の底から感じたり
考えたりしないと
本当の自分の流されたい方向はわからなくて
流されていく中での誰かのものを
自分のモノと勘違いしていることは
とても、たくさんあるように思います。
特に
いろんな情報や
いろんな流行りや
いろんな賞賛や批判
そんなモノに溢れてるなかで
本当の自分の中のモノをみつけるのは、
なかなか難しく
きちんと向き合わないと、分からなかったりします。
流されるは流されるでも
こっちに流されたいから
こっちに流される
か
よくかわらないからこっちなような気がする
で流されるのは
全く違う。
私は昔、
後者の生き方をしていたように思います。
生き方がわからない
どうやって生きるのが正解なのかわからない
何が正解なんだろう?
だから
人のモノを自分のモノと勘違いして
そっちに流され生きていました。
それは、
自分の生きたい方向に流されたい!
と口では言いながら
自分の中のものと向き合うのが怖かったから
本当の自分は、
人に対して
時に怒ったり
時に恨んだり
時に憎んだり
そんな汚いところがたくさんある。
そんな自分がいるのを認めたくなかったんです。
汚い自分は許されない。
そんな前提が自分の中でありました。
だから自分にベクトルを向けるより
外に向けている方が都合が良かったんです。
でも
その代償として
苦しみがずっと付きまとっていました。
自分は何者か?
を外に外へと答えを求め
あるはずのない場所に答えを求め続けており
わけがわからなくなっていたんだと思います。
今は少しづつ
流されたい方向に流される
という生き方をしているように思います。
それは汚い自分を認めつつあるから。
私は
人に対して嫌な感情を持つし
好きな人苦手な人もいる
腹立つことも、イライラすることもある。
けど、
その感情を自分の責任として受け止める。
そんな生き方に変えようと努力しています。
私の感情は私のモノ。
と同時に私の責任なのです。
そう生き方を少しづつ変えていってから
自分の気持ちや判断にも自分で責任をもち
少しづつ自分の流されたい方向がわかってきつつあります。
それは私が
ずっと願っていたことでした。
ブレない自分
これは人の意見
私の意見はこれ
そうやってはっきりと断言できる自分にずっとなりたかったんです。
人の顔色を伺って生きるんじゃなくて
自分を信じて
根拠はなくても
『心が動くから』
そんな理由でいいじゃない!
そう思って自分の意見を選択していける自分を誇らしく想います。
常に自分に内観し
他からくるさまざまな情報に
これは私のモノ、これは全く違うあなたのモノ
これは少し私と被るモノがある
そんな風に
きちんと自分の意見を持てている自分になれつつあること。
むかしは、ジャッジしている自分は
いけないと思い、そんな風になってはいけないと思っていました。
それが平和だと思っていたから。
でも
全く違うということがわかりました。
平和は自分の中にできてこそ
周りも平和になるのです。
自分の中の平和は
自分に素直になること。
でした。
常に自分に問いただし
自分の想う道に
流れ、流される。
そんな人にどんどんなっていきたいな。
と想うのでした。