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#85 ニュージーランド蹴破り日記その6-10

 急遽、ミューラー・ハットに行くことにした。仕事が午前で終わったからだ。
 天気予報は微妙だった。今日も明日も曇りだった。しかし明日と明後日よりは良さそうだ。急ぎごはんを炊き、おにぎりを作り、夕焼けの頃には着けるだろうと歩き出した。
 曇ってはいるが、山はしっかり見えている。山の白が濃い。その白さが教えてくれるのはもう、岩山の表面の細かな凹凸ではない。降り積もった雪の、濃密さだ。
 道の上にも、序盤から雪が積もっていた。途中のシーリー・ターンズを過ぎる頃には、元あった道は見えなくなった。雪の上にある足跡が、新たな道を敷いていた。
 雪が積もると、楽になることがある。足の踏み場の、自由が増す。岩場も雪に覆われていれば、自分の歩幅で踏み出せる。
 徐々に雪が深くなると、自由の増した足跡が複数伸びるようになった。私はその中から好きな足跡を選んでたどった。もはや、元あった道は関係なかった。時々足跡のないところも歩いてみたが、脚をずぼずぼ突っ込みながら行かねばならないので大変だった。
 そうしていたらミューラー・ハットが見えた。赤い山小屋を囲むのは、これまでで一番の雪景色だ。赤い小屋の屋根も白かった。気付けば空は晴れていた。西日を受ける山々は、これまでで一番、白が濃かった。

 今日はこれまでで一番、辛くなかった。それはただテントやマットを持っていないからとか、自分の歩幅で踏み出せるからとか、そういうことではない気がした。
 白が濃い山を見ながら、一番好きなビールを飲んだ。ワナカの「ビー・エフェクト」の、ウエストコーストIPAだ。最後の一缶を持ってきた。おにぎりにも、最後の一缶のツナを入れてきた。たとえ予報が微妙でも、天気は最後まで分からない。悪かった時に困らぬよう、備えねばならないのと同様に、よかった時に悔やまぬよう、最善を尽くして臨まねばならない。今日用意できる一番のごはんを持ってきた。
 あっという間に日が沈み、あたりは藍色に包まれた。白かった月が、明るい黄色に光り始めた。夜になっても、薄雲に隠れても、月が明るい。外へ出るにも、ライトを持っていく気にならない。明後日の夜は満月だ。
 明日の朝も晴れてほしい。

 目が覚めるとまだ暗かった。しかしうっすら、東の山際が黄色く見える。ゆっくり朝ごはんを食べてから外に出た。
 平地のへりに立つと、そこはもくもくの海の岸だった。どの山も雲を突き抜け、姿をすっきり現している。山際の空は黄色く、その上に浮かぶ雲は暗いオレンジ色だった。さらに上空は、夜の気配を残す藍色だった。
 山小屋の背後の岩場もまた、雪にすっぽり覆われている。薄く積もっているのよりよほど容易く、上を渡って歩いて行ける。
 雪の積もった岩場に立つと、白い足元の先に雲の海。それを突き抜けるマウント・クック、マウント・セフトン。果て無く続く、岩山の連なり。振り返れば、見下ろす平地にミューラー・ハット。
 その白の濃さが、赤の鮮やかさが、跳ね返す光の強さが、太陽の訪れる気配とともに強くなる。その上に広がる空と、漂う雲は、淡い黄色と紫に、力強い赤と柔らかなピンクに、明るいオレンジと黄緑色に、加速するように色を変える。
「ここはやっぱり、一番だ」
 さらに壮大な景色を、私はいくつか知っている。それでもやはり、ここは何かの一番なのだ。
 空の色が静かになると、マウント・セフトンの頂点が、淡いオレンジ色に染まった。光が山肌をなでるように、ゆっくり下方に広がった。
 平地を囲む山々が、徐々に同じ色に染まっていく。太陽の気配が増すにつれ、あたりの白の濃さが増すにつれ、色は広がる。
 やがて平地の白い地面も、ぽつりぽつりと、同じ色を映し出した。山と地面が区別なく、全く同じ色になるのを、初めて目にするようだった。
 東の山の背後から太陽が昇った。ミューラー・ハットの白い屋根が、私の足元の白い岩が、山と同じ色に照らされた。
「ああ、おはようございます・・・」
 私はこれを見たかったのだ。真っ白な雪の中に身をうずめる、ミューラー・ハットを。そこからの景色を。そこを訪れる、朝の光を。

 小屋のキッチンに戻って温かいお茶を飲みながら、ぼんやり思い出されたのは、元旦の未明にここまで登り、朝焼けを見た時のことだった。初めて出会う夜の冷たさと風の強さから逃れるように、真っ暗なこの部屋でおにぎりを食べた。初めて山で朝を迎えて、下りる途中のシーリー・ターンズでもおにぎりを食べた。ただ登って下りただけなのに、大きな冒険から帰ったような、素晴らしい世界を覗いたような気がしてならなかった。
 あの頃の私はほとんど何も知らなくて、道具も全然持っていなかった。私は今も、ほとんど何も知らないし、道具もまだまだ足りないのだけど、この一帯の山々で、色々な一日を過ごしてきた。色々な景色を眺めてきた。
 昼を過ぎた頃、平地の先の雲の海が、ようやく晴れて消え始めた。私は赤い山小屋と、ぐるりと囲む、白の濃い山々に手を振った。


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