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#93 ニュージーランド蹴破り日記その7-2

 チャンスは二日後に訪れた。むしろ、向こう一週間のうちこの日しかないと言っていい。
 タラナキは富士山に似ているとよく言われるが、富士山のように大きいわけではない。九時間ほどで、行って帰ってこられるようだ。なんなら、マオリ族にとって神聖な場所なので、頂上でキャンプをしてはいけないそうだ。
 ビジターセンターの人は、
「夏以外の時期に行くのはすすめられないが、クランポンとアックスを使えば行ける。」
 と言っていた。
 宿で会った、「先日途中まで行ったけどクランポンがなくて引き返した」という人に写真を見せてもらったら、雪に覆われてはいるけれど、深いわけではなさそうだった。
 片道五時間かかるかもしれない。朝早く起きて、七時半には歩き始めた。曇り空の下、東の空の低いところだけ、オレンジ色に染まっていた。
 初めの道は、他のコースとも共通の、整備された幅広い歩道だった。両脇に森が広がっている。空気は冷たくないけれど、曇っているので暑くもない。今朝外に出た時も思ったが、ニュープリマスは暖かい。タラナキの頂上の気温は、そこより二十度以上低いそうだ。
 道はそのうち森を抜けた。石がごろごろ転がっている。やはり全体的に茶色い気がする。芋のような紫色の石や、赤みの強い石もある。
 軽快に進んでいると、前方が霧に覆われ始めた。この先にあるはずのタラナキの姿も、まったく見えない。私はまだ一度もタラナキをしっかり見ていない。やや急な坂をまっすぐ上り進めていたら、それはぼんやりと、しかし強い存在感でもって、道の先に現れた。
「これか!」
 タラナキだ。横に広く伸びた三角形。上方は白く、下方は茶色い。
 一歩進み、一秒進むごとに、それはみるみる明瞭になった。表面に、大きな波のような凹凸がある。波と波の間には、がくがくとした段差がある。
「いいねえ」
 気付けばタラナキも私も真っ青な空の下にいた。後ろを振り返ると、上ってきた道もその下の街も、真っ白い霧に隠れていた。

 他のコースとの分岐点を過ぎると、急に足元が白くなった。昨日降ったばかりの雪だろうか。薄くてふわふわで、人の足跡は全くない。時々見る小さな丸い足跡と、見慣れない小さな指と爪のある足跡ばかりだ。これは一体誰の跡なのか。
 もう整備された歩道はないが、短い間隔で目印のポールが立っている。頂上までずっと立っているそうだ。雪は少しずつ深くなるが、道のりはいたって順調だ。上りが続いているけど疲れもない。このペースだと、三時間もかからずに着いてしまうのではないか。
 余裕たっぷりに、ほぼまっすぐ頂上へ続く尾根に出た。その時を境に、歩みの速度はがくんと落ちた。とてもじゃないが、そうサクサクと上れる場所ではなかったのだ。
 傾斜がだいぶ急になった。そして雪の様子が、これまで歩いたどの場所とも違う。細かい雪の粒の中に、それより少し大きい氷の粒が混ざっている。周りの岩の表面にも、薄く張った透明な氷と、白い雪が混在している。
 滑りやすい。クランポンの爪も、安定しづらい。油断すればサクッと崩れて滑り落ちそうだ。
 一歩一歩を慎重に上り進めた。すると突然、全体が霧に覆われ始めた。先ほどまで見えていた頂上も太陽も、すっかり霧に隠れてしまった。
 しかしポールは三本先まで見えている。濃い霧ではないし、風も穏やかだ。引き返す用意は、いつでもできている。
 もくもくと、ポールを追って上り続けた。一、二本先のポールを見据え、そこへ至るまでの斜面の様子をよく見ながら、どこをどう通ってそこへ向かうか考えなければならなかった。きっと夏は夏で、足元の石がガラガラ崩れるのに耐えながら上らねばならないだろう。それはそれでまた大変である。
 今度の霧も突然晴れた。目の前にひさしぶりに現れたタラナキは、もう頂上がすぐそこに見えた。背後は一面、雲の海だった。青い空には、太陽がまぶしく輝いている。
「すごい!」
 登るにつれて、雲の海が広い。東の遠くにはトンガリロ国立公園の山々が見える。西の雲の切れ間には、ニュープリマスの街と海。
 目の前の斜面はますます急だ。
「自分には当面ご縁がないだろう」
 と思っていたクランポンとアックスの使い方を実践せねばならなかった。
「クランポンとアックスを使えば行ける」
 のは本当だ。ビジターセンターのスタッフというのは危険性について常にやや大げさに言うものだと思っていたけれど、あの方はそうではなかったようだ。
 追いかけるポールはだんだん氷をまとうようになり、そのうちぶくぶくに太った雪だるまのようになった。周囲の岩の表面では、細かいもこもこがびっしり並ぶような形に、雪が凍りついている。もこもこモンスターだ。どうしてこういう形になるのだろうか。
 非常に慎重に、狭い隙間をきゅっと上ると、両側をもこもこモンスターに挟まれ、ややくぼんだ形の平らな場所に出た。ひさしぶりの、安心して立っていられる場所だった。正面奥には、初めて南側の海が見える。
 おかしな形の、真っ白な景色。右側にあるもこもこモンスターの上が、タラナキの頂上だった。四時間かけてようやく着いた。

 
 頂上は、そこだけ別の世界であるかのようだった。大量のもこもこモンスターに囲まれた、真っ白な足元。その先に続く雲の海。雲の切れ間に見下ろせる、緑の大地と青い海。頭上にはただ、真っ青な空。
「なんじゃこら!」
 どこを向いても、果てまで見える。
「こんなに広い雲の海を見るの、初めて!」
 果てまで続く雲の海。ふわふわの雲。水面のように平らな雲。森のような雲。雲、雲、雲。
 景色が広く見えるのは、他に大きなものがないからだ。雲を突き抜けた唯一のものは、トンガリロの山。サザンアルプスは、雲に紛れて分からなかった。
 もこもこモンスターは、よく見ると氷と雪の合作だった。そのためところどころ水色に見えた。一面に広がる、白、青、もこもこ。
 下りの雪面は、日差しをたっぷり受けてかなり柔らかくなっていた。こうやって氷と雪の混ざった地面が生まれるのだと納得した。
 街に帰って、海辺でビールを飲みながら日の入りを眺めた。海と街を覆う広い空が、色々な方角で、色々な色に変化しながら暮れていった。半月よりだいぶ太くなった月が、白いまま徐々に明るくなった。
 山が連なっていなくても、広い空の下にいれば満足できる。
 この島に来て一番の、大満足の一日だった。ちょっと怖いので、もうあそこには行かないけれど。


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