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#53 ニュージーランド蹴破り日記その4-6

 その日は、二日前から続く雨が、昼頃になっても降っていた。休日の私は朝から大量のごはんを炊き、大きなおにぎりを作っていた。
 今日はセフトン・ビヴァークに行くのだ。雨は昼過ぎに止み、強風は夜には収まり、深夜から明日にかけては晴天の予報だった。
 十六時頃、ルート序盤のフッカー・バレー・トラックを歩き始めた。風はやや強いが、それほど厳しいわけではない。雨が上がって数時間後のマウント・クックは、上方が大きな雲に覆われていた。
 荷物は、先週ミューラー・ハットへ行った時とほぼ同じだ。異なる点と言えば、おにぎりの具材と、耳栓と絆創膏が加わったことと、何より重要なのは、水の量だ。
 二十人以上宿泊できる大きな山小屋、ミューラー・ハットでは、井戸水を汲むことができる。ガスを使えるキッチンもある。井戸水を沸かせば、飲むことができる。
 セフトン・ビヴァークは、四人しか宿泊できない小さな山小屋だ。宿泊費もかからず、予約など必要ない代わりに、井戸水を沸かすガスはない。したがって、明日下山するまでの間に必要な水を、持参しなければならない。
 前回から水が一・五リットル増えた荷物は、特に肩に、重たく感じた。フッカー・バレー・トラックの道が平坦であることに救いを感じながら、身体を荷物に慣れさせるように、気楽に歩いた。今日は家でゆっくりとエネルギーを養ってきた。時間にもだいぶ余裕があるのだ。
 しかし、一番目の吊り橋が封鎖されていた。おそらく強風のためだろう。仕方がないので引き返して、ミューラー・ハットへ行くことにした。結果、平坦な道を無駄に四十分ほど歩いたうえ、必要以上の水を持って、ミューラー・ハットまで登ることとなった。
 シーリー・ターンズへの階段道は、前回と同様に辛かった。しかし前回と同様にゆっくりのペースで、しっかり呼吸しながら上っていくと、徐々に身体が慣れてきた。そして前回と同様に、止まらずそのまま、シーリー・ターンズの先へ進んだ。
 その先はもうずいぶん、荷物を負担に感じなくなっていた。たどり着ける自信と、「いくらでも水を飲んでよい」と思うことが、精神的な余裕を生んだ。ゆっくり、しかしほとんど止まらずに、ミューラー・ハットにたどり着いた。かかった時間は、おそらくこれまでで一番短かった。
 ミューラー・ハットに近く、マウント・クックもマウント・セフトンもよく見える場所を、今夜の住処にしようと決めた。しかし日の入りまで二時間以上ある。風もまだ強い。ひとまず夕飯を食べることにした。マウント・クックはまだ、大きな雲に覆われていた。
 今日のおにぎりの具材は、卵焼きとアボカドとわさび醬油だ。具材がとろりと柔らかく、わさび醤油と溶け合った。ただカバンに詰めてきたビールは、今日もひんやり冷たかった。りんごももちろん持ってきた。
 誰かが積んだ石垣の中でご飯を食べている間は、風はそれほど気にならなかった。しかし立ち上がってテントを立て始めると、その威力に打ちのめされた。
 骨組みを通したテントを、安心して置いておけない。外側の布を被せたくても、風がすべてをかっさらっていく。しばらく格闘した末、一度畳んで夕焼けを見ることにした。何があっても、テントを壊すわけにはいかないのだ。
 その日の夕焼けは、オレンジ色の雲と共にあった。西の上空で、流れのはやい、散り散りの雲が、泡のように渦を巻いては消えていった。クライストチャーチで見た、砕け散る波を思い出した。東の空は、柔らかな紫や赤に染まっていた。マウント・クックも、いつの間にかはっきりと姿を現していた。
 空と山が茜色に染まるのを終え、風は先ほどより穏やかになった。しかし依然として強い。まだ一人でテントを立てるのは難しいかもしれない。五ドルくらいで誰か手伝ってくれないだろうかなどと考えながら、時々吹く突風の間を縫う作戦で、テント設営に再び挑んだ。場所は、岩で風を凌げそうな場所に変更した。今度も無理だったら、深夜、風が収まってから、ライトと月の明かりで立てよう。それまで山小屋のキッチンで寒さを凌ごう。
 すると、テントを広げる私に話しかけてくる女の子がいた。
「手伝い、いる?」
 いる!
 オランダから旅に来たという彼女と、その友達の力によって、テントは瞬く間に完成した。「一刻も早く固定しろ」という勢いだった。友達が、
「地面が段になっているけどいいの?」
 と言うと、その女の子が、
「反対側で寝ればいいのよ!」
 と一蹴した。私が口をはさむ余地はなかった。もちろん何の異論もない。
 完成後、心からの感謝を口にする私に彼女たちは、
「全然かまわないよ! この風の中、一人で立てるのは無理だから!」
 と、強風のような勢いで言い残し、去っていった。
 そのテントは素人目に見ても、あまりきれいな仕上がりではなかった。しかし私が一人で立てるのよりも、ずっとしっかり打ち込まれていて、ずっと素敵な住処に見えた。

 夜、風はずいぶん穏やかになった。テントが揺れたり音を立てたりするのは、たまに突風が吹くときくらいだ。それも深夜にはほとんどなくなった。風が吹く低い音と、時折起こる、氷河の崩れる音が、テントの中に静かに響いた。
 空には少し太った半月が浮かんでいた。半分であっても、それはとっても明るかった。寝袋にくるまって天井を見上げると、月のある方向だけ、生地から光が透けていた。
 今回はすんなり眠れるかと思ったら、これが案外そうではなかった。前回よりも寒い気がする。地面の冷たさが、マットと寝袋を通してお尻に伝わる。眠りにつくのに時間がかかった。途中で起きてしまってからも長かった。それでも休養をとった実感はあった。そして朝方、いつもの場所へ、岩場を上った。
 今日はほとんど雲がない。鮮やかな空の色が、これ以上ないほど、くっきりと見える。まだ明るくなり始めたばかりの空の赤は、もはや茶色を感じるほどに濃い。
「赤!」
 と何度か口にした。
 雲がないと、太陽が山に落とす光が、はっきりしていた。初めのうち、東の方向の山並みは、暗い影だった。細かい凹凸と緩やかな曲線が連なる稜線が、明るい空から真っ暗な山を切り取ったようだ。しかしだんだん、その真っ暗な輪郭を成すのが、幾重にも重なる山であることが分かるようになった。手前の山と奥の山では色が違うのを、ゆっくり昇る太陽が照らしていた。
 山から太陽が現れてずいぶん経ってから、岩場を降りて、テントに帰って少し寝て、再び外で山を眺めた。もう昼も近くなっていた。
 私は結局、昼の山の景色が一番好きだ。青い空の下、日の光をたっぷり浴びて、輝く氷河や、青い影を落とす山肌や、鮮やかな緑は、本当に美しい。それを、そこで寝て、ご飯を食べて、ゆっくり待つというのは、なんて贅沢なのだろう。それは、その日もやっぱり美しかった。
 私が二度目にミューラー・ハットへ行って、コウダイとカレーうどんを食べた翌日、彼は仕事終わりに、夕焼けを見にミューラー・ハットまで行って帰ってきた。そして、
「ミューラー・ハットはたぶん、ニュージーランドで一番景色のきれいな場所だ」
 と言った。私が知る限りでも、ここからの山の景色は格別だ。
 来られる限り、何度でも来よう。テントで迎えた今日のことを、私はきっと忘れないだろう。

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