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#18 ニュージーランド蹴破り日記その2-4

 その晩はよく眠れなかった。きっと明日、「ミルフォード・サウンド」に行くからだ。
 朝起きて、顔を洗って歯を磨いて、小走りで車に乗り込み、口にデーツを放り込んで七時半に出た。空はまだ朝の顔をしていた。
 ミルフォード・サウンドは、一キロ以上ある細長い入江だ。海岸沿いに道はなく、クルーズツアーに参加するしかすべがない。テ・アナウやクイーンズタウンからのバス送迎が付いたプランを選ぶ人が多いようだが、私は参加しなくて済むツアーには極力参加したくない。現地まで車で行くことにした。しかし、同室の中国人の女の子から真面目な顔で、
「気を付けてね。本当に危ない道らしいから。」
 と言われた。え、そうなの?
 急ぐは事故の始まりだ。片道二時間から二時間半と聞いたが、三時間前に出ることにした。愛車「赤レンジャー」のフロントガラスに大きな鳥の糞が二つ付いているが、そんなものは放置だ。ガソリン満タン、お腹いっぱいのはずだから頑張ってもらいたい。
 朝の道は空いていた。制限速度をやや超えるスピードで着実に進んだ。
 一時間と経たずに、気づけばフィヨルドランド国立公園の中にいた。だだっ広い草原の先に険しい山が連なる場所や、本当に鏡のように周りの景色を映す湖が、次々と現れた。私はそのたびに、グーグルマップで所要時間を確かめてから車を降りて、景色を眺めた。
 そのうち霧がかかり始めた。霧雨も降り始めた。ミルフォード・サウンドでは雨天が多いらしい。近づいているのを感じてわくわくした。むしろ雨が降っているほうが、滝の迫力が増すときいた。これでいいのだ。カッパもタオルも持ってきたのだ。
 景色が良い場所で車を停めた。すると車の上から、「コツコツ」と打つ音がする。
 助手席側の窓ガラスの上部から、黒い鉤のようなくちばしの鳥が、上下逆さまの顔をひょっこり現した。ケアだ。
 コツコツと音を立てて車の上を歩きながら、コンコンと音を立てて窓ガラスをつついている。私は動き回るケアが立てる音に耳を澄ませ、助手席側にいるのを確認してから扉を開けて、車を降りた。遠くで他の個体が、
「ケアーーーー!」
 と叫ぶのが聞こえた。
 ケアは、身体が四十センチくらいありそうな、大きなオウムだ。くすんだ黄緑と茶が入り混じった色で、尾のあたりに水色が差している。翼を広げるとオレンジ色も見える。羽の一枚一枚が大きい。触ったら指が奥まで「ぶわっ」と入りそうだ。爪や嘴は大きくて、鉤の形をしている。つつかれたり掴まれたりしたら痛そうでちょっと怖い。ケアは人間の持ち物をよく襲うらしい。
 私が車の外に出ると、ケアは運転席側へやってきた。近寄っても、手で払っても、まるで動じる様子がない。真正面から私の顔を見返したり、車の窓のゴムパッキンみたいな部分をつついて引っ張り出したりしている。やめてくれ。
 屋根のへりに長い爪をひっかけているケアを、どうにか一歩後ろへ下がらせ、車に乗り込み、発進した。
 その後もしばしばケアを見た。工事中の場所で、赤信号を待ちながら車の窓を開けたら、一羽のケアがサイドミラーに乗っかっていた。私が慌てて窓を閉める間、悪いことなど何もしていないような顔で、ずっとこちらを見つめていた。
 結局、十時頃にはクルーズ船のターミナルに着いた。コーヒーを飲む余裕すらあった。フロントガラスに付いていた糞は、雨とワイパーで跡形もなく消えていた。

 ターミナルは、入江の一番奥にある。ここから二時間かけて沖の方へ行き、戻ってくる。
 雨はいつの間にかやんでいた。乗船を待ちながら入江を眺めた。上にも下にも放物線を描くような大きな崖が、遠くまで続いていた。どうしてこういう形になるのだろうか。
 クルーズ船がゆっくりと出発した。それでも風が強くて冷たかった。普段着の上に「国立 少林寺拳法」のウインドブレーカーとレインウエアを重ね、風に吹かれながらデッキに出た。
 遠かった崖がゆっくりと、次々と目の前に現れる。遠くから放物線のように見えた崖は、近寄るとまっすぐ切り立って見える。また、それぞれがずいぶん違う姿をしている。そしてとても大きいのが分かる。
 進むにつれて、霧が濃くなる。崖の上のほうは、霧に隠れて見えなくなった。私はレインウエアのフードをかぶって、顔に霧雨を浴びながら、どこまで続くのかよく分からない巨大な崖を見上げていた。
 途中、とても高いところからまっすぐに落ちる滝が、いくつか並ぶ場所が現れた。滝は「さーっ」と静かな音を立てていた。崖はおそらく二段になっていて、はっきり見えるのは下の段だけだ。それでもずいぶん首を傾けて見上げなければならなかった。その上は、霧の隙間からうっすら見えた。この滝の水は、どれだけ高い場所から降りてきたのか。
 どこまで続くのか、どんな姿をしているのか分からない巨大な崖の合間を縫って、二時間かけて、船で進んだ。折り返し地点で水平線が見えた時に、ここが海であることが初めてよく分かった。
 途中で遠くにペンギンも見た。アシカも見た。水流が激しい滝の下で、霧と飛沫をたっぷり浴びた。顔とカッパがびしょ濡れになった。
 それでも私を一番に楽しませたのは、巨大な崖が入り組んだ、地形の妙だ。もし、好きな形の海岸を作っていいと言われたら、こんな入江を作る人間が、ただの一人でもいるだろうか。
 夕方、行きと比べてずいぶん気の抜けた運転をしながらテ・アナウのそばまで来ると、今朝方ぶりに羊の放牧場が見えた。とても好きな、しかし見慣れた光景だった。
「私は今日、羊も牛もいるはずのない場所へ行ったのだ」
 と気が付いた。

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