進化の門

1960年、フランク・D・ドレーク博士が「地球外文明の数」を想定する方程式を提案した。
そこで重視されているのが、その文明の存続する期間(文明の寿命)である。これが長ければ長いほど他の知的生命体とアクセスする可能性は拡大する。
まあ、当たり前と言えばそれまでな理屈であるが、同様のことを原爆開発でも有名な物理学者フェルミも学者仲間との会話の中で述べている。
地球以外に知的生命体が存在しない確率は天文学的に小さな数字を示す、とフェルミはいう。つまり地球人以外に知的生命体が存在すると考えるのが、より自然であるということだ。
が、それならばなぜ私たちは他の知的生命体と出会えないのか?そこでフェルミが仮定したのが「進化の門」という仮説だ。
それぞれの知的生命体が他の惑星の同類に遭遇するほどの技術力を有する前には「進化の門」という狭き門を潜り抜けなければならない、という仮説だ。その門は非常に狭き門で、多くの知的生命体はそこを通れずに滅亡してしまうから、未だ我々は地球人以外の他者と出会えないのだという。

初めに挙げたドレークの「文明の寿命」とフェルミの「進化の門」は同義である。ともに時間を重視している。
私たちは認識の拡大を追い求め、大いなる知識を得たが、同時に全人類を何十回と絶滅させうる力も得た。つまり私たちはまさに「進化の門」を目前にしているといってもいい。
生命は種の存続という本能により、進化のための時間を得てきた。その中で人類は同時に、認識の拡大という欲求を持ち続け、地球外に飛び出せるだけの技術も得た。
認識の拡大への欲求と種の存続の欲求。人類を構成する二つの大欲求が、互いに相反するレベルまで私たちは到達したのだ。

認識の拡大を追求する飽くなき好奇心を私たちは否定することはできないだろう。歴史的にも幾度も試されてきたが(ヨーロッパの中世や日本における江戸時代等)、遅かれ早かれ、それらの試みは覆されてきた。そもそも旧約聖書の時代、アダムとイヴが知恵の実を口にして以来のものだ。ハラリのいう「認知革命」という、人を人たらしめた力の源泉でもある。だからこそ私たちはそれを押さえつけるのではなく、上手く御しつつ、時間稼ぎをして「進化の門」をすり抜けねばならない。

私見だが、宇宙に一定数の人類が出て、地球を外から眺めるという実体験を共有した時、次のレベルまで意識は上昇するのではないかと期待している(地球市民とかコスモポリタンとかいう人がいるが、現段階ではそれは観念的イデオロギーに過ぎず、それらを振りかざすことは非常に危険だと思う)。
アポロ計画で宇宙へ出た宇宙飛行士には霊的確信を得る者が多かったと聞く。見ると聞くとでは大違い、と世間で言われる通り、彼らは地球とか細い糸で繋がっている自分をまさに「体感」したのだ。身体性を伴う知識こそ本物だというのは、おそらく多くの人が納得するところだと思う(武道を嗜む人なら尚更だ)。スピリチュアル的だと思われるかもしれないが、この実体験の共有こそが、狭き門である「進化の門」を潜り抜ける唯一の方法ではないかと思うのだ。
シンクロニシティではないが、自動車が発明されたばかりの頃は、あの複雑な操作を行える人はごく少数であった。しかし、今では教習所に通いさえすればほとんどの人が可能になるまでに一般化した。パソコンやスマホについても同様だ。「百匹目の猿」の真偽はともかく、一定数を超えると一般化され、認識が共有されるという事実は、理屈はどうあれあるのだと思う。

技術の進歩によりその時は迫っている。どんな手を使ってでも時間稼ぎをして、新しい世界を見てみたいと、私は切望している。これはもちろん、個人の寿命のことのみを言っているのではないのはわかっていただけるよね?

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