『だから、もう眠らせてほしい』を読みました

感想文は昔から苦手で、どう着地するかわかりませんが書いてみます。

私の育った環境は、延命措置はしない、臓器移植はする、そんな感じでした。
両親とも腎バンク・アイバンクに登録していて(今はどうなっているかわかりません)とあるきっかけで、私は骨髄バンクに登録しました。
私が死んだら(脳死となったら)使えるものはすべて使ってほしい、家族にはそう伝えています。
海外の事例で、皮膚などまで使って100人以上の方の手助けになったという記事を何年も前に見て、そうして欲しいと思いました。

ただ、夫にはまず「えぇ!?」と言われ、自分も例えば子どもがそうなった時どうするんだろう、という迷いもあります。
管に繋がれて、ベッドに横たわるだけの時間を、私が受け止められるか。
もしかしたら回復するかもしれない可能性を、ナシにするのか。
それでも思いついた時に、私は延命はしないでね、脳死ならすぐに移植を、と伝えています。

これは尊厳死になるのかな?と思いました。
この本を読んで、そう思うまで、そこまで考えてはいませんでした。
いまのところ安楽死を望んだことはありませんが、時々話題にのぼるたび、反対、というよりは、それもありなのかな?くらいに思っていました。
深く考えることもなく。

吉田ユカさんの静かでありながらきっぱりと、眠らせてほしい、と言う気持ちは、わかるなんて簡単には言えません。
夫さんの、もうこれで本当に話ができなくなってしまうのですね、という言葉が、彼女の気持ちを最優先にした色んな思いが詰まっているのだろう、配偶者が死ぬことがつらくないわけない、だけど、とぐるぐるしています。

Yさんの亡くなった後、妻さんが義実家に責められるのが、許せなくて悲しくて、こういうことが死が自分のものでない最たるものというか、自分の親にもきっちり説明しておくれよ妻まかせじゃなくてさ、というYさんへのもやもやが、なんともいえません。
彼は思い通りにしたけれど、妻さんは全力で支えたけれど、ここのやり残し感が、結婚は家同士のものではなくなって久しいけれど、二人だけではいられない現実。
関係は良好だったのかもしれないけれど。

看護師さんの仕事の真髄をみた、と感じたのが及川さんです。
Yさんの妻さんに、何度も来てほしい、ひとりじゃないと思えることが大事、とわかってくださっている及川さんに、私も救われる思いでした。
暮らしの保健室が、身近にあって、気軽に通える方は、羨ましいなと思いました。
私も行きたいです。何を話しても怒られそうですけれど。

今私がこの立場になったら、私はどうするのだろう。
脳死のことは少し考えていたけれど、じわじわ意識のある中で死が迫ってくる状況になったら?
自分以外の家族がそうなった時に、私の思いを優先しないと、言えるのか?何度も何度もこの本を読んで考えていくことになるのだろうと思います。

サンキュータツオさんの『これやこの』に、
死ぬってことは、生きている人たちのためにある現象
という言葉があって、西先生の講演で聴いた、
「死」は、「ライオン」や「夜」とは違うというのを思い出していました。

一度読んだだけでは頭がパンクしそうで、二度読んで何もまとまらないと諦めて書きました。
ぼんやりしてるだけじゃ、いけないな、と思い、たまには生きること死ぬことを考えようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?