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DJ WADAヒストリー ディスコ編[第2期②]

私が初めて一人暮らしを始めた時に買った、
ミニコンポ。
老朽化により壊れて片チャンが
出たり出なかったりなんですが
カセットデッキが生きているのと
古い木製のスピーカーのまるい出音が
なんとなく眠るのに心地よいということで
WADAが未だに引退させてくれません。
片チャンが出ない時は
何度か激しくつまみを回すという
原始的な技でどうにかして働かせています。
コンポの御年22歳。
猫だったら人間にして100歳超え。
100歳のヨボヨボおじいちゃんに
鞭打って働かせている様を想像したら
ちょっと可哀想。。。
そんなWADAを
根っこは意外とエゴイストなんだよなぁ、と
改めて思う今日この頃。
本編とは全く関係ありません。

失礼しました。

さて、パクス・ロマーナよろしく、
彼にとっての『Gil's』での楽しい時間も
1年ほど勤めたあたりで
お店の体制の変化に伴い
少しずつ終わりが見えはじめてきます。

そんな時、偶然知り合いから
かつて彼がDJデビューを果たした
スクエアビル9Fの『fou fou』の跡地に
新しく店をオープンするので来てくれないか?
と声がかかります。

新しいお店の名前は『Reve Japonesque』。
彼がこの後、約7年も在籍した
『Neo Japonesque』の姉妹店です。

84年、WADAくん25歳。
この誘いを受けて
後輩であり同僚でもある直さんとともに
『Reve Japonesque』に移籍をします。

家庭内インタビュー中にいつものように
「ホントに移籍したのは84年?」
という話になったのですが
オープン準備中に直さんと二人で
『ハンガー』を観に行ったのは
覚えていると言い張るので
ここはホントっぽいです。
色んなサイトでは
『Reve Japonesque』のオープンは
85年になっていますが。

まぁ、それはさておき、
こうして彼は約6年の時を経て
店の様相も経営元すっかり違っていますが
場所的な意味での
“古巣”に戻ることになりました。

『Reve Japonesque』は
彼らが楽しい時間を過ごした『Gil's』と
ターゲット層も選曲のジャンルも
ほぼ似たようなコンセプトのお店でした。
(同じニュー・ウェーブやハイエナジーでも
若干ロックな要素を抜いた感じだったそうですが。)
彼は真新しい職場に期待を膨らませますが
何の因果か『fou fou』時代をなぞるかのように
半年とちょっとで、
『Reve Japonesque』より少し前にできた
姉妹店『Neo Japonesque』に
一人、異動することになります。

『Neo』は『Reve』よりも
(“Japonesque”はもう省略しますね)
ターゲット層の年齢は少し上、
お客さんの6〜7割近くが外国人という店で
そのせい、といってはなんですが、
『Gil's』や『Reve』とは異なり
ヒップホップ、ロック、ニュー・ウェーブ、
ディスコ、ソウル… etc.
とオールジャンルでの選曲を求められました。
(日本人の方がジャンル分けしたがる傾向が
あったっぽいです。)

彼が入った頃の『Neo』は
オープンから1年と少し経ったらくらい。
当時、700〜800人程度のキャパが当たり前の
ディスコにしては小ぶりで
300人も入ればいっぱい、
BARのようでもあり、ディスコでもあり…
いわゆる“小箱”のはしりのようなお店でした。
そうそう、今でいうと渋谷の『BAR Bridge』に
少し近い感じだったそうです。

和を基調とした内装に
レーザーディスクが
まだ新しいメディアだった当時、
フロアとBARを仕切るスクリーンに
映像を投影したりと
小ぶりながらも設備にも“先端”を取り入れた
このジャパネスクモダンの
新しいスタイルの店に
彼はワクワクしたといいます。

この『Neo』での彼の勤務態度は
相変わらず、いや、『Gil's』以上、
たくさんの友人に囲まれて酒浸りの日々。
時には酔っ払ったまま出勤することも。
この店にいる間のいつだったか
時期は覚えていないそうですが
最高潮に酔っ払ったままDJをして
店のレコードを何枚も踏み割り、
翌日から禁酒令および
系列店全てに〈WADAに酒を出すな〉と
戒厳令(笑)をしかれるほどだったそうです。

ご存知の方も多いかと思いますが
この頃のディスコでは、
レコードは全てお店持ち、
DJがお店のツケで購入して
店に入れるのが当たり前でした。
(この頃あたりから、
DJ個人の私物のレコードも
混ざるようになってたそうですが)
そんな中のこの踏み割り事件、
戒厳令くらいで済んだのは
人手不足だったからか、
はたまた彼のキャラクターか。
とにかく軽い方だったんではないでしょうか。

さて、こんな不真面目な勤務態度の
WADAくんですが、
意外にも音楽に対しては真面目でした。
(あ。でも酔っ払いのときのプレイは
粗いながらも絶好調だったようです。
あと、怒っているときのプレイも。)
この店での安定したDJ生活は
彼に音楽的理解を深める時間を与え、
『Castel』や『Gil's』のような
華やかで楽しい刺激とは
また違ったものを彼にもたらしました。

『Neo』で彼が楽しませるべき相手は
主に、遊び慣れ耳の肥えた外国人、
しかも選曲はオールジャンル。
一晩の流れを作るには
当然、幅広く音楽を理解する必要があります。
曲の構成はもちろん、その背景、ルーツ…etc.
『Castel』や『BEE』時代にも
これらを理解することは必要ではありましたが
当時はまだ仕事をこなすこと、
現場を〈知る〉ことで精いっぱい。
それがここに来て、
仕事における成長段階が
次のフェーズへと移行したのでしょう
彼は曲を掘り下げることの必要性に気づき
その作業に没頭しはじめます。

当時の業界の流れも
彼の成長を煽るかのように
“DJは音楽的理解を深めるためにも
海外の空気に触れるべき”
という風潮にありました。
多くのDJ(または DJ志望者)が
当時のディスコミュージックの
メインストリームであるNYへと渡る中、
彼も例に漏れず、
今まで遠い存在だった〈海外〉を
ここに来てようやく意識し始めます。

しかし、マイペースで天邪鬼、
そしてスピリットはロックである彼が
思いを馳せた地はNYではなく
DJの仕事とは決して結びつきの強くない
ロンドン。

こうして、彼は
ロンドンへの思いを胸にして約2ヶ月後、
85年6月に2ヶ月弱の休暇を取り
憧れの地、ロンドンへ発つのです。

〈続く〉

ということで、次回は
「WADAくん初めての海外旅行」から。

ちなみに、渡英した年代を特定したのは
Propaganda - Duel
の発売時期から。
(旅の間に聴いたとか。)
最近は大体この方法で
思い出してもらってます!

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