DJ WADAヒストリー 復活編①
こんばんは!
GWが終わりそうで、
あーあ、な人も多いかと思いますが
年号、新しくなりましたね。
令和元年、おめでとうございます。
とはいえ、特にこれといって
自分の生活の何かが
具体的に変わるわけでもなく、
これまで通りに日常が続くだけなんですが
それでもなんだか、
世に漂う何か新しいことが始まるような
わくわくした空気感とか
気分を改める感じとかは
季節も相まって良いもんですね。
そんな世のわくわく感に乗じて
Co-Fusionも遅ればせながら
Instagramを始めたみたいです。
おっさん二人の絵面が多くなりそうですが
可愛いー(w)と思う人もいるかもなので
お知らせしておきます。
よかったらフォローしてみてください!
アカウント→@_co_fusion_
ということで、今回は
そのCo-Fusionで出演した
WIRE02周辺の時の話でも。
*
病院での治療や民間療法など
様々な方法を試した甲斐もなく
結局、WADAの左耳の聴覚は戻らぬまま
模索の中、時間だけが過ぎていきます。
先の記事にも書きましたが
WADAはとにかく、
左耳が聴こえない、
音が辛いという違和感を
いかにして拭い去るかということだけに
気持ちを取られ、
というか、それを心の拠り所にするしか
自分を保つ術がなく、
仕事を含むその他のことは
一切考えられなかったと言います。
そのためなのか、
そもそも辛かったことは
優先的に忘れる性質なのか(本人談)
この頃の記憶は、
これまでのいつにも増して曖昧なようで…。
(退院の時だったか通院中だったか
偶然会いに来てくれた
サワサキ ヨシヒロさんの車で
送ってもらったのは
なぜか覚えてるみたいw)
なので、ここからのハナシは
WADAのその曖昧な記憶を頼りに書くため
主に時期とかその辺りで
事実とちょっと違う部分も
あるかもしれませんので
大体で捉えてもらえると嬉しいです。
(もし、正しい情報をお持ちの方がいたら
ご指摘をー!)
というわけで、
退院して2ヵ月、3ヵ月が過ぎた頃になっても、
すでに手遅れとなっていた
左耳をなかなか諦めることができず、
回復のみが全てだった彼には
右耳だけで仕事はどうするのか、
このまま引退したとしても
どうやって生計を立てていくか等の
具体的な先のことは一切考えられず
もちろん、仕事への責任感みたいなものへと
思いを至らせる余裕もなく
「復帰」という2文字の存在は
あるかどうかさえ分からない状態でした。
しかし、当然ですが
世の中は彼ひとりで
回ってるわけではありません。
『maniac love』でのレジデントの仕事は?
その他に決まっていた仕事も
あったんじゃないの?
彼の携わっていた仕事、
そしてそれに関わる人々は
いつまでも彼を待って
歩みを止めているわけにはいきません。
『maniac love』土曜日のCYCLEは、
当時の彼のマネージャー
Satoshi Endoくんを始めとする若手や
旧知のDJ仲間たちが
週ごとに交代で彼の開けた穴を埋め、
パーティーを守り続けてくれていました。
その他の決まっていた仕事も
交代やキャンセルで凌いていましたが
どうしても交代も
キャンセルも出来ない仕事が1本。
そう、前回の終わりに書いた
2002年8月31日
さいたまスーパーアリーナで開催された
WIRE02へのCo-Fusion LIVE出演。
もちろん、最悪キャンセルという選択肢も
なかったわけではないのでしょうが
周囲からは「これだけは演ってください。」
と有無を言わせない圧があり
とても断れるような
雰囲気ではなかったそう。
今となって思えば
いつまでも回復にこだわり煮え切らない彼を
多少強引にでも、みんなで前へと
進ませようとしてくれたんじゃないかな?
と私、個人的には思えなくもありませんが。
こうして、周囲の力により
心の準備も体の準備も整わないまま
WIRE02への出演へと
歩みを進めることになります。
さて、いざ仕事を再開させるとなっても
以前とは全く違うバランスの聴覚。
しかも音に敏感になりすぎてしまった
唯一の彼の右耳は
大きな音と、ある一定の周波数を含む音に
拒絶反応を示します。
そんな右耳だけで今のように
外音とモニターを聞き分けることなど
できるはずもなく。
リハも含めて何度か練習はしたものの、
結局殆ど思うようにはできないまま、
モニターの音を極力小さくして
刺激を軽減してみたり、
TANIさんに彼の負担が最小限になるよう
工夫してもらったり、
それでもできるかどうかは半々という
危うい状態で本番に臨みます。
よくそんな危うい状態でやったなー。
できなかったらどうしたの?
保険的な策はあったの?と訊いたところ、
「できなかった時はTANI君がどうにでも
カバーしてくれると思ってた」と
そこはTANIさんへの信頼感。
結果的には、大きな失敗もなく
どうにかカタチにすることができ
表向きには大成功しました。
当時、そんな彼の状況もよく知らない
ただのいち客だった私は
フロアでたくさんのオーディエンスと共に
彼の復活した姿に、音に、歓喜し、
また、バックヤードでも
彼の身近な人たちがその復活に
祝杯をあげました。
しかし、その中で
彼だけはまだまだ複雑な心境でした。
これでは全然ダメだと。
今回はCo-Fusionのライブで
TANIさんがいて、
時間も30分だったからできたものの
ここまでやるのがやっとで、
もっと持ち時間の長いDJなんて
とてもじゃないができない。
けれど、そんな彼の不安はよそに
この出演をきっかけに
復活への歩みは
次のステップへと続いていきます。
WIRE出演後、
当時の『maniac love』店長の
和田さん達の働きかけで
営業時間前のmaniacでDJ本格復帰に向け、
ひっそりと練習を始めることに。
慣れ親しんだ環境でもう一度やってみる。
当然のことながらライブで感じた不安どおり
全然思うようにはいきません。
右耳が大きな音や電子音を拒否するため
出音のバランスが掴めず
音をコントロールしきれない。
根幹となるビートを拾えないため、
MIXをしたとしても
全くスムーズに繋がらずガタガタ。
思うようなプレイとは程遠い状態でした。
練習を始めたと言っても
この右耳がクラブの音量や電子音を
受け入れられるようになるのか
自分でも確信は持てず、
「復帰は練習をしてみて、できたら…」
という消極的なスタンスで
始めたと言いますが、
とりあえずでも“何か行動する”ということが
彼を前向きにさせたのか
練習を繰り返す中で、ここにきてようやく、
心のどこかで微かにではありますが
『復活しないと、
自分にはもう生きて行く術がない』
『周囲の期待と厚意を無にしたくない』
という思いが芽生えたようです。
この回を書いて(?)嫁としては、
ああ、彼の短所であり長所でもある
受け身の姿勢と完璧主義な部分が
とても現れてるなーと思います。
(あ、あとシングルタスクなとこもね)
そして何より、そんな彼の復活を信じて
強引にでも引っ張ってくれた
周囲の人たちの存在のありがたさ。
この時の彼らの助けがなかったら
WADAは今、どうなってたんだろう?
こうして、周囲の助けによって
練習を重ねるうちに
徐々に彼の右耳は刺激への耐性をつけ
それに伴って、なんとなくではありますが
MIXにも手応えを感じ始めます。
この練習がどのくらいの時間を要したのか、
手応えを感じ始めたのは
どのくらいからだったか、
というのが全く思い出せないようなので、、
確実ではないのですが
暖かい時期ではなかったというのと
わかっている正式な
復活パーティーの日にちから推測して
多分ですが、発症から約11か月、
2003年の2月頃から
フライヤーやWEBでのクレジットは無しで
オープニングの時間に
何度かテストプレイをし、
(この頃、
私も客として遊びに行っていましたが
早めの時間だったので
全体的に抑えめなプレイながらも
全然ブランクは感じませんでした。)
翌3月8日(これは確実)、
ついについに『maniac love』CYCLEで
待望のDJ本格復帰を果たします。
*
ということで、今回はこの辺で。
ふぅ。
ようやくちょっと内容に光が差し始めた。
新年号1発目が暗いまま終わらなくて
良かったです! なんつって。
でも気づいたら、
この後はあんまりネタがないんですよね。
どこまで続けてみましょうかね。
まー、いいや。
テキトーに行けるところまで!
ではでは。
年号が変わろうが変わらまいが
緩いのは相変わらずですが
どうか新しい時代、令和が
皆さん、そして世界にとって
平和で希望に溢れる
素敵な時代になりますよう、
祈りを込めて。