『16年前の8月12日。父が亡くなりました。真っ赤な百日紅を見るたびに思い出す、あの日。』

今から16年前の8月12日。

父、植村猶行が亡くなりました。
享年81。
膵臓癌でした。

この文章を書くため
Google検索したら…

父が書いた本、プロデュースした本、
父が研究し生み出したベゴニアの新しい品種の数々、
父が残したものが沢山、出てきて

ウルウルして
画面が見えなくなりました。

植物の研究に人生を捧げた人でした。

父が作り
イタリアの「花の博覧会」で発表した
私の名前『Naomi』がついた
八重咲きのベゴニアも出てきました。

仕事一筋で、
家族とはほとんど一緒に過ごした時間のない父。
そんな父が新品種のベゴニアを作って
私の名前を付けてくれたことが
幼い頃からの唯一の自慢です。

亡くなった後、
アメリカの椿の研究所から
新しく椿の本を出版する仕事の依頼の手紙が
実家に届きました。

もっと仕事がしたかったに違いない…。
胸が締め付けられました。

大正生まれ。

陸軍士官学校を出て
第二次世界大戦では戦地に行った人です。

ふんどししか履いたことのない人でした。

父が入院した有明の病院には
当時の戦友が駆けつけました。

『貴様!病気になんか負けるな。
 また一緒にあの日の話をしよう!』

病室に
同期の桜🌸が咲きました。

どんな時も仕事第一。

夏の旅行にも、
ディズニーランドにも、
一緒に行くハズだった父の姿はありませんでした。

急に入ったベゴニアの取材。
家族のことより仕事が優先…
彼にとっては当然のこと。

それだけ
取材や研究、執筆が楽しかったのだと思います。

そんな父の背中を見て育った私も
仕事第一主義。
人生のプライオリティは変わりません。

父も植物の出版社を早期退職。
植物の研究に没頭し、
その後は、
学校で若い皆さんに教えることに専念しました。

父にとっては
幸せな日々だったと思います。

亡くなる前の日の晩。
最後の言葉は…
「なおみ君、百日紅が満開だ、綺麗だね。
 ちょっと万年筆を取ってくれる?」

病室のベッドの上でも
原稿を書き続けていました。

テレビに映る
満開の赤い百日紅に頰をゆるませながら…。

翌日の未明、
容体が急変。

苦しむ時間は少なかったと思います。

8月12日。
有明の癌研病院から
練馬の自宅まで父は帰りました。

最後に父が見た
真っ赤な満開の百日紅が
街の街道のあちこちで見送ってくれました。

※去年したためた文章に手を入れました。
 去年に引き続きお読み下さった皆様有難うございます。

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