母校に気持ちを。
町内の城山小学校が、創立150周年を迎えると、
回覧板がまわってきた。記念事業として、
校庭に面した校門を改修するという。
多額の費用がかかるので、寄付をお願いしたいと
いうのだった。
小学校5年生のときに100周年の式典を行った。
大樹と名付けられた記念碑が、体育館の向かいに
建っている。
1年生のときの担任の先生は渡辺先生だった。
すっかり顔を思い出せないが、優しいかただった
覚えがある。
2年生から6年生までは水野先生だった。
こちらはちょっと厳しい先生だった。授業で使う
教材を忘れていくと、次回から忘れないようにと、
油性の赤いマジックで、教材の名を腕に大きく書かれた。
親に見つかると叱られるので、帰宅すると急いで
石鹸でごしごしこすり落としていた。
6歳上の兄がいて、高校生のときに仲間とバンドを
組んでいた。自宅で毎日ギターやピアノを弾いて、
井上陽水や吉田拓郎を唄っていたから、こちらも
覚えるともなく覚えていた。学校の休み時間に、
人間なんてらららららら、ら~らと、吉田拓郎を
口ずさんでいたら、子供がそんな歌を唄うんじゃないと、
顔を机に叩きつけられた。
そんな罰が、先生も子供も当たり前の時代だった。
今だったら新聞沙汰になるなあと思い出した。
美術を専攻していた先生で、卒業するときにクラスの生徒
ひとりひとりに、似顔絵を描いた色紙を送ってくれた。
すっかり忘れていたのに、先日、実家の片づけに
行ったときに見つけた。
お名前は、まさはるだったかまさあきだったか覚えて
ないが、厳しく𠮟られたことも懐かしいことだった。
その頃仲良しだった友だちに、ピアノを習っている子が
いた。
親の転勤で引っ越してから、ずっと会わなかったのに、
20代のときに、長野のちいさなホールで演奏会を
やるからと連絡があったのだった。久しぶりの再会が
まことに嬉しかった。
峯村操くん、今はどうしているかとグーグルで
検索したら、
文教大学の教育学部で音楽の先生をしながら、ときどき
ピアノリサイタルをしていると出た。
写真を見れば、子供の頃の面影がそのままで、
元気そうでなによりとしみじみした。
この50年、
なんとも情けない暮らしを重ねてしまったが、
子供の頃から人の縁にだけは恵まれていたことと、
懐かしく振り返ったことだった。
後日、母校に気持ちばかりの寄付をさせていただいた。
緑さす友有り我有り母校かな。