ブロークン_フラワーズ

シネマの記憶011 ありえたかも知れない人生

 井上陽水のファーストアルバム「断絶」に、「人生が二度あれば」という曲がある。そんなもの、人生なんて一度切りに決まっているじゃないか、と、長く思ってきたが、でも、人は神様じゃない。ありえたかも知れない人生への思いは、年齢とともに大きくなるものなのかも知れない。

 ジム・ジャームッシュの「ブロークン・フラワーズ」(2005年米国公開)を観た後、いつものように最初のシーンから牛のように反芻していると、唐突に「人生が二度あれば」という言葉が浮かんできた。この「ブロークン・フラワーズ」には、「ありえたかも知れない人生」についての、ジム・ジャームッシュの思いが詰まっているように思えてきたからだろうか。ちなみにこの映画は、住宅バブルが進行中だったはずの2005年に米国で公開されているのだが、なぜか熱狂のようなものとは程遠く、アンニュイな気分が全体に漂っている。

 主人公のドン・ジョンストン(ジョンソンじゃなく、ジョンストン)は、老いた元ドン・ファン(ドン・ジュアン)という設定である(これは作者特有の言葉遊びだろう)。毎日が日曜日のように、フレッド・ペリーのジャージ上下に革靴というスタイルで、長椅子に座ったり、ゴロリと横になったりして過ごしている。昔コンピュータ・ビジネスで大儲けしたらしく、すでに悠々自適の老後、と言えば聞こえは良いが、何もすることがなく、退屈きわまりない生活を送っている。まるで生気が感じられない。そんなわけで、同居している若い彼女シェリーにも愛想を尽かされる始末。

 ある日、ピンク色の郵便物が届く。差出人は判らないが、どうやら20年前に別れた女からの手紙のようだ。彼女には現在19歳になる息子がいるという。ドンと別れたあとに妊娠していることが分かったのだけれど、現実を受け入れて生んだのだという。その息子が、先日、旅に出た。おそらく父親を探す旅ではないかと思う。というものだった。

 その手紙を隣人のウィンストン(ジェフリー・ライト)に見せたところ、妙に張り切り、ドンに向かって20年前に付き合っていた女のリストを作れという。その挙げ句5人の女の居所を探し出し、ご丁寧に飛行機、レンタカー、宿泊場所まで手配し、ドンに差出人を突き止める旅へと誘導していく。なぜウィンストンは、そんなお節介を焼くのだろう。彼にはドンの心模様が手に取るように分かるようなんだけど、なにゆえ?ウィンストンが狂言回しのようにも見えるし、ドンの分身のようにも見えるし、映画作者ジム・ジャームッシュの分身のようにも思えてくる。

 気乗りしないと言いながら、ドンは、ウィンストンのシナリオに乗って、ピンクの花束を抱えて20年前の元カノを一人ずつ順番に訪ねる旅に出る。

 まず、ローラ(シャロン・ストーン)の娘ロリータの所作にたじろぐことになる。ついでドーラ(フランセス・コンロイ)と夫の関係にさざ波を立てることになり、カルメン(ジェシカ・ラング)の助手に邪険にされ、ペニーの取り巻きには一発お見舞いされる始末。そして、土の下に眠るペペの墓前では涙を流す。なぜこんな旅に出かけて来てしまったのか、自分でも理由がよく判らない。

 旅を終えて住まいに戻った後、一人旅をしている青年を自分の息子と思い込んで追いかけるシーンがある。車の中から、ドン(ビル・マーレイ)をじっと見つめながら通り過ぎていく青年がいる。どうやらビル・マーレイの実の息子らしいのだけれど、その彼とて息子かも知れないけれど、息子ではないかも知れない。

 結局、差出人は誰だったのか、ドンにも、観客にも、分かったのかも知れないし、分からなかったのかも知れない。あるいは手紙の差出人が誰であるかなんて、最初からどうでもいいことだったのかも知れない。ピンクの手紙と隣人のウィンストンによって、ひょっとしたらありえたかも知れない、もうひとつの人生を探す旅に誘われたのだけれど、ありえたかも知れない人生を見つけることなど最初から出来るはずもなかったのかも知れない。

 ドンは、ただ、十字路に立ち尽くすほかないのだった。


画像出典:映画.com

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