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オランダの小学生を見ながら考える「厳しい学校ルール」の意義

こんにちは!今日は子どもたちにとっての「校則」について書きたいと思います。…というのも先日、高学年の教室に入った時のことでした。生徒2人がおそろいのピンク色に髪の毛を染めていたのです。いわゆる「ブロンド」に近い彼女たちの髪の毛は、染髪すると結構しっかり染まります。その髪を見た相方のMarian(仮名)が2人に、

"You guys have a matching hair color, cute!(あんたたち、お揃いのヘアカラーやん、かわいいね!)"

と声をかけたのでした。そんなやりとりを見ながらふと思いました。
「日本だったら、まず有り得ない声かけよな…」と。

今回はオランダの小学生にとっての「校則」について書きたいと思います。


日本の「校則」にある2つの側面

私は現職だった頃、生徒指導部に所属していた時期がありました。私が最も興味のない生徒指導。苦笑 生徒指導にわざわざ分掌を設けるなんて、オランダの先生たちは実に驚きますが、日本では生徒指導部のない中高なんてほとんど存在しないのかもしれません。

個人的に、私は日本の校則には2つの側面が含まれていると思っています、それは、

・身だしなみや身体的な見え方に関わること
・行動規範などの行いに関わること

であり、それが当たり前のように「混ぜて」考えられている部分に混乱があると思うのです。そもそも、行動規範を厳しく定めることさえ私は必要ないと思いますが「許容される行い」の隣に、「身だしなみの規定」が並んでいたら、「どちらも同じように守られるべきこと」という印象を与えるような気がします。しかし、そもそもそれらは「こうしなさい」と言われてすることなのでしょうか?「こんな行動が望ましい」というところに、児童生徒自身が辿り着くような教育活動を行うことが学校の役目の1つなのでは?と思うのです。最初に何かを規定するの?順番が逆じゃない?

オランダの学校に「身だしなみ」の校則は存在しない?

私がこれまで50校以上の学校を視察する中でわかってきたことがあります。

それは、オランダの学校に身だしなみを規定する校則など存在しないということでした。多くの場合、オランダで制服がある学校は「私立(特に一部のインター)」の学校に限られ、そこには衣服規定があります。ただ、それもまた相当限られた数にしかないと言えますし、そういった学校でもピアスやアクセサリーがダメかといえば、そうではないことも多いようです。

こういう議論になると「歴史が違う」とか「文化が違う」という話や、移民の数の話(つまり、多様性の広さ)の話になりがちです。でも、考えてみればどの国だって辿ってきた歴史や文化は違えど、人々の「今」に合わせて社会を変革し、法制度を整えるようにしてきているのです。

それはアジアの国々でも同じことが言えると思います。「歴史が違う」とか「文化が違う」ということは「(バックグラウンドが違うので)その議論は必要ない」とイコールになりません。その国に、その社会に、その学校に変化を求めている人たちがいれば、それは「議論の余地がある」ということなのだと私は思います。

"児童書週間"のテーマ「良い感じのわがまま」というテーマに、
「パーカー前後ろ反対に着てもえぇやん」という表現をする教師たち

「見かけに拘る」という価値観の再生産

担任をしていた頃、試験期間中に行う「試験監督」の役割は、生徒の身だしなみチェックをするには最大の機会だと捉えられていました。全校集会なんかも同じで、「全体的に同じ」の中から「異質なもの」を見つけ出し、指導する機会にするのです。時々ニュースにもなる「地毛申請」や「(髪色)レベルスケール」なんかは、私が勤務してきた高校には当然のものとして存在していました。

話は変わって、"Don't judge a book by its cover."という慣用語がありますが、これは「本の表紙で中身を判断するな」という意味です。これが転じて「人を見かけで判断するな」という意味にもなります。…が、私たちは実際のところ、社会や学校教育の中で"Judge a book its cover."つまり「本は表紙で判断しろ」と教えているのではないか、と思うのです。建前上と本音は違うということを、わざわざ学校教育を通して教えているようにも感じられます。

厳しい校則で児童生徒を縛り付けることで「身だしなみには気をつけろ」と言い、それが「身だしなみによって(あなたの価値が)判断される」というメッセージを伝え続けていることにならないでしょうか。そして、その教育を7歳から18歳まで受け続けてきた児童生徒が学校生活の中で「人は見かけによって判断しても良いのだ」という価値観に根を生やし、その価値観を持って社会の中でも「見た目で判断されて当然だ」と振る舞い、その価値観を再生産しているのかもしれません。

「見た目」の段階からいつまでも抜け出せない

高校3年生を教えることが多かった私は、彼ら彼女たちが高校を卒業して大学生や社会人になり「校則に縛られない」という段階を謳歌している様子を度々目にしていました。逆に言うと「大学生にもなって、まだその段階で楽しむことしかできない」ということかもしれません。その行為はある意味、そこまで「締め付けられてきたこと」への反発にあたるもので、彼ら彼女たちの精神的成熟を必要以上に遅らせているように見えます。

一方で、オランダの小学校(特に)高学年を見ていると、ピアスはつけてくるし、アクセサリーもOK、染髪をしたり、付け爪をつけていることもあります。しかし、小学生段階における彼ら/彼女たちの「見た目を表現することへの欲求」は、かなり早い段階で一旦消化されているように見えます。

中学生にもなって、いつまでも小さな箱に児童生徒を押し込めて「スカートの丈は膝まで」だの「靴下のワンポイントの大きさは」だの言っていると、いつまで経っても「たったそれだけのこと」への拘りが不満として募っているかのようです。小中高とずっと学生でいる間「その段階から解放されたい」という部分にばかり彼らの意識が留まってしまっているように、私には見えます。

オランダの中高生が比較的成熟している理由

オランダの中高生と話をした日本人の方からは時々「オランダの学生は成熟していますね…」という声を聞くことがあります(もちろん全員ではありません)。これはオランダに限らず、他の外国諸国の学生にも当てはまることかもしれません。

「それは何故か?」と聞かれたら、私は「彼ら/彼女たちは、かなり早い段階で自分の欲求を満たされる経験をすることで、その視座がより高度なものへと移りやすいから」だと思っています。中高生にもなって、持ち物や、髪型や髪の色、ズボンの履き方など、自分の半径5メートルの狭い視野の問題ばかりに関心ごとがあると、社会問題などに目を向ける視座さえ生まれにくいでしょう。地域の問題や、社会課題、世界規模の戦争など、高次元な事柄に関心が持てるとすれば、その手前にある欲求が満たされてこそだと思うのです。

それが大人にとっては「ただ、我慢してやり過ごせば良いもの」だったとしても、児童生徒が通過する発達過程、特に思春期においてそうはいかないこともたくさんあります。誰が何と言おうと、それが「発達上にある彼ら世代の関心ごと」なのです。だとしたら、その欲求は早めに空へ昇華させてあげなければ、次のステップに進めないことだってあるのではないでしょうか。

しかし、実際は「黙って首を縦に振っておけばいいこと」だと教えていることがほとんどかもしれません。「長いものには巻かれておけ」と、知らず知らずのうちに「疑問の種」を摘みます。そして、大学卒業時になると急に「あなたは何がしたいのか?」「どんな人間なのか?」「どんな社会課題を解決したいのか?」と問われるのです。

「あれ?ここまでそんなことを聞かれたことがあったっけ?私が抱いた疑問を表現することが許され、それに向けて課題を解決しようとした経験があったっけ?」と困惑するのも無理ありません。

小学生の”付け爪”は学習の妨げになるか?

先週の授業で、付け爪をしてきていた生徒が授業中にその爪を専用のノリで貼っていました。手を動かしながらもこちらを見て指示を聞いているなら構わないのですが、机の上では「大手術」のようなものが始まり、視線は「付け爪」へ。笑

そこで私たちは思いがちです。

「付け爪なんかしてくるから授業に集中できないのだ」と。「学校は教科を学ぶところなのに、付け爪が学習の妨げになっている。だから付け爪を禁止するべきだ」と。

一方で、その状況を見ながら、日本の教室を想像していた私。目の前で起きている事象とその結論は本当に一直線で結びついているのだろうか?と考えていた時でした。

「今は英語の授業だから、それは片付けて。私が教室の前に立って話をしている時は、私が全体に説明をしたい時。私にリスペクトを見せるという意味で、話を聞いているという姿勢を見せて欲しい。それはどうやったら見せられるか?そう、話している人の目を見るのよ。少なくとも"私"は今、そうして欲しいと言っているの」

Marianははっきりとそう伝えました。

実のところ付け爪をしてくることは「直接的な学習の妨げ」にはなっていません。付け爪をしてきたその生徒が、授業中に自分を律することが出来ない時に限って、学習の妨げになるのです。日本の社会や教育の中では、目の前の事象とその生徒の行動を端的に「直接的な因果関係」として捉えがちかもしれない…そんなことを考えたのでした。

児童生徒との関係性ができていれば、生徒はすぐに付け爪を片付けます。それは「先生が怖い」からではなく「この行為が今のこの状況においては不適切である」と理解するからです。もし仮にそれが理解できない生徒がいたらどうすれば良いか。「対話」をすれば良いのです。学校教育には常にそういった余裕がなければいけません。学校現場とは、児童生徒を効率的に誘導する場ではなく、対話を通して彼らに社会性とは何かを伝える場でもあります。

私たち大人は子ども、児童生徒に説明できるか?

もし、オランダのような身だしなみの校則のない学校を望むのであれば、私たちは彼らとの間で生まれるコンフリクトに対して、正面から向き合う気概がなければいけません。

それは学校教育だけでなく、家庭で「(自分なりの)根拠を持って説明する」というステップが欠かせません。

「調べたいことがあるのに、授業中にスマホを使ってはいけないのは何故なのか?」
「食事中にスイッチをしながら食べることの何が問題なのか?」
「休み時間に小腹が空くから、学校にお菓子を持っていきたいのが何故許されないのか?」
「友だちと学校でシールの交換をしたいけど、何故シールを持って行ってはいけないのか?」

学校に持参するペンや筆記用具は基本的に自由、彼らに必要以上のこだわりもない

あらゆる児童生徒の「何で?」に私たちはついつい言葉を怠りがちかもしれません。そして「もうめんどくさいから、一斉に禁止」でことを済ませようとしていないでしょうか?果たして、そこから児童生徒は何を学ぶのか?学びはあるのか?安易に「禁止」という行為に及んでしまっていないか?

実は、私が出会ってきた教育者たち、そして保護者たちの中には、無意識的(意識的)にそこまで考えて児童生徒や子どもと向き合っている人たちがいます。そんな大人の関わりが、社会をつくるのだとつくづく感じます。

クラスでそれ相当の女の子たちがピアスを開けているのを知っている私。

「で、ピアス開けたいと思う?」と娘に聞くと、

「別に良いかな。髪の毛も染めたくないし、ピアスも開けたくない。痛いし。笑 別にそんなことしなくても、私は私のままで良いと思ってるから〜」

これは娘の生まれ持った性格なのか、それとも「いつでもできる」という状況があるから、自分が本当に「してみたい」と思うタイミングを自分で考えられるのか。

「あれもダメ、これもダメ」という目先のことばかりにとらわれず、もっと大きな絵を見つめられるようになるとすれば、それは私たちや、娘に関わる大人がその都度立ち止まり、彼女とどんな対話をするかにかかっていると思っています。

\Voicyでもお話ししています/


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