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コーチに「帰って」と言われたテニスレッスンの子ども

こんにちは!先日、娘のテニスレッスンを外で見学していた時のことでした、クラブにはカフェも併設されているので、レッスン中そこで仕事をしていることもあるのですが、その日は娘が「今日は見てて欲しい!」と言ったので、青空の下、レッスンの様子を見守ることに。

娘が所属しているグループには、前々から1人、コーチの言うことをなかなか聞き入れられない男の子がいました。その子が遂に今日、コーチから「帰ってくれ」と言われたのです。

再三の注意も聞き入れない

「じゃあ、次はあのラインに順番に並ぼう」コーチがそう言えば、後からゆっくり歩いてきたにも関わらず、平気で順番を抜かします。

「場所を交代して」と言われても「嫌だ」と言って、しばらく説得に時間がかかります。

自分が打つ番ではない時でも、平気で床にあるボールを拾って後ろからボールを打ちます。

順番待ちの時に周囲の子どもたちが「やめて」と言ってもなお、ロシア語とオランダ語を混ぜた歌を唄い続けます。

レッスンに集中していないので、もちろんボールが打てる確率は低いし、そもそも指示さえ聞いていないこともあるので、コーチが何度も指示を言い直します。

何か次のアクションに移るたび、彼はスムーズに移行できません。私が見たところ、コミュニケーション能力に問題がありそうな感じはありません。一方で「ふざけ具合」が度を超えている感じはうかがえます。

ちなみに、そのコーチのレッスンは全くもって軍隊のような雰囲気でもないし、私が見る限りコーチは「最大限の寛容さ」を持って、子どもたちが楽しめるようにレッスンをしてくれています。でも、その子は再三の注意も聞き入れず、その度にコーチが彼と話をするので、レッスンが中断されるのです。

「コートの外に出てて」「まだやりたい」

あらゆる行動に対して、コーチは頭ごなしに何かを言ったりはしていません。「次、同じことをしたらコートの外に出てもらうよ」という風に、ちゃんと「ボーダーライン」を示し、「わかった?」と聞きます。反応がない場合は「わかった?」「僕の言うことは聞こえてるかい?」と聞き、反応があるまで譲りません。そして、その子が何らかの反応(頷きなど)を見せるまで待ちます(この時点でレッスンの時間が度々止まります)。

約束をしたのにも関わらず、また同じことをした時、コーチは言います。

「約束したけれど、守れなかったね。コートの外に出ていなさい」
「嫌だ。まだやりたい」

こうして、彼はコートに留まることを主張するのです。しかし、コーチも引きません。「まだやりたいは聞き入れられない。キミは僕と約束しただろう?」と根気強く話します(このやりとりでまた時間が過ぎていきます)。

それでも「僕は行かない、ここに残る」と主張するのです。
そんなことが、これまで何度も何度もありました。

コーチがボーダーラインまでのステップを示したのにも関わらず、「行かない」と言えるのは、何なんだろう。ふむ。ことの重大さがわかっていないか、こういった状況になるまで大人に真剣に向き合ってもらったことがないか。いわゆる「状況を慮る」という経験が不足しているのかもしれません。

同じグループの子が泣き出した

そして遂に今日、あまりにもレッスンがその子の言動によって何度も中断されたことで、ストレスを感じたある女の子が泣き出しました。後で聞くと、娘もかなり苛立っていたようで、「泣きたい子が出てくるのもわかる」と言っていました。正直「その子が」というより、コーチとのやりとりを聞くことに、レッスンが中断されることに辟易しているのです。

そこでコーチは同じグループの子どもたちの「テニスレッスンを受ける権利」を守ろうという決断をしたようでした。

「出ていって。もう来なくて良い」
「嫌だ、出て行かない」

「お母さんはどこにいる?話をしよう」
「しなくて良い。ここに残る」

そこでコーチは隣のコートにいた別のコーチに相談しました。すると、その上司にあたるコーチが「もう無理なんだね?じゃあ、保護者に連れて帰ってもらって良いよ」と言ったのです。そこからコーチは、保護者を呼んで「彼を連れて帰ってもらえますか?レッスン代は全て返金します」と言いました。

保護者から逃げ続ける子ども

その保護者はコート脇にいつもいます。でも、いつも電話をしているか、ノートパソコンで仕事をしているか…いずれにせよ、子どもから見える範囲でいつも忙しそうに仕事をしています。

「お母さんですか?この子を連れて帰ってください」と、コーチがオランダ語で言うと、何を言っているのかがわからない様子でした。恐らく、オランダ語がわからないのでしょう。そこで、コーチは英語に変えて、

「これまで何度も何度も注意をしてきましたが、どうやら聞き入れられないようです。今や他のレッスン生が泣くような事態になっています。彼は私の指示が聞き入れられません。もちろん子どもですから、聞き入れられないこともあるでしょう。こちらも最大限に寛容さを示してきました。でも、もう限界です。連れて帰ってください。このレッスンに戻ってくることはお断りします」

母親は「いや、でも」と反論したそうでした。うーん、でもこれまでの子どもの行動をそこから見ていたら、反論はできないと思うんだけどなぁ…前々回もコーチが「コートから出て行きなさい」と言って、母親の元に送った時、母親は電話をやめず、子どもと向き合わなかったのを私は見ていました。そうすべき時に向き合わない大人の態度を子どもは見ているのです。

そして今回、母親をコートに呼び出し、彼女が子どもを連れて帰ろうとした時、その子どもは母親からダッシュしてコート中を逃げ回りました。もちろん、その間レッスンは中断しています。逃げ惑う子ども、声をかける母親、何故か母親も全力で追いかけません。

いやいや、自分の子どもも捕まえられんのかい…というか、本気で追いかけようよ。あなたが本気で子どもに向き合わず、誰がその子と本気で向き合うんだい…

一度は母親の腕の中に入ったその子でしたが、コートから出ると、別の入り口からまたコートに戻ろうとしました。「こっちのドアが開いてるもんね〜」と言わんばかりにドアへ近づいた時、私は"hey, terugkomen"とじっと見つめて声をかけました。子どもは社会で育てるもの。あなたを見ているのは、コーチとお母さんだけじゃないよ、というメッセージのつもりでした。

複数人の中で子どもや生徒を指導した人ならわかる感覚かもしれませんが、私が声をかけた時、その子の目の中に「やばい」という感覚は見つけられませんでした。恐らくここまで、本気で大人に向き合ってもらった経験がないのかもしれません。それでもその子はしばらく母親から逃げ、やっと捕まったかと思うと、母親の腕を噛み、力づくで連行されていったのでした。

大人の寛容さが足りない?

「子どもに関わる人間なら、寛大であれ」と思うでしょうか。コーチの指導力不足だと感じるでしょうか。それとも、子どもであれ、それは行き過ぎた行為だと思うでしょうか。感じることや思うことは人それぞれでしょう。

ひょっとしたら、その子はADHDかもしれない、アスペルガーかもしれない、もっと寛容な社会を…どんな子にも社会の中で一緒に生きていくチャンスを…

この状況にコメントするとしたら、いろんな考え方や見方ができると思います。ただ、ここでの結論はただ1つ。コーチが「もう限界だ」と判断したということです。そして、これは密室で起きたことではありません。彼の指導が行き過ぎたものではないことは複数の保護者が見ています。

私的な視点から言うと、コーチはここまでかなり辛抱強く関わってきていたと思います。これまでの状況を見てなお、自分の子どもに声掛けさえしない保護者を前に、寛大な態度をとってきたように思います。それでも無理なものは無理。そう彼は判断したのです。それは彼が決めて良いことだと思いました。

子どもはどこで「リスペクト」を学ぶ?

その子にどんな特性があれ「リスペクト」は体得できるものであるということを、私は学校教育の中で見てきました。もちろん学校教育は「社会性」を育む場所としての役割は大きいし、「他者へのリスペクト」を学ぶ場としての意味合いも強いでしょう。

一方で、家庭の役割も同じくらい大きいと思います。パートナー同士、親子、近所の人、配達員とのやりとり、担任との会話、子どもが保護者から「リスペクトとは何か」を学ぶ場面はいくらでもあります。しかし、逆に言えば、保護者や周囲の大人がそうしないことで、他者へのリスペクトを学ぶ機会を奪い続けることも容易に可能だと思います。

日常の中にある小さなこと、バスの運転手やスーパーのレジ係に「こんにちは」や「ありがとう」と言うこと、人に道を譲ること、何かを手渡す時に「どうぞ」と声をかけること。そういった大人の小さな一挙手一投足から子どもは学び、それを人と接する時の所作として(教え込まれるより)真似する部分は大きいと思います。

そして、その積み重ねが、誰かが全体に話をしている時に被せて話さないことや、クラスメイトが発言をしている時に静かにすること、教師が話始めたらそちらを向く「社会性の中のリスペクト」につながっていくのかもしれません。

とりわけ「自分に何かを教えようとしてくれている人」に対して、「教わる立場」としてのリスペクトを見せることは大切です。もちろん教える側の高圧的な態度は不要であって、教師と生徒の関係性に「バランス」は大切です。ただ、個人的には、オランダの教育活動の中でこういった姿勢が身についていない子どもたちが非常に多いなと感じています。そして、それは一概に「子どもたちのせい」ではないのではないかと考えさせられます。つまり、私を含めた大人が「リスペクトとは何か」を体現することを怠っているのではないかということです。

相手を責め続けるのか、自身を振り返るのか

帰り際、「今日のことを他の人がどう思うかはわかりませんが、私は個人的にいつも子どもたちが楽しめるようなレッスンをしてくれていることに感謝しています。保護者自身が学ばなければいけないこともありますからね。最低限のリスペクトは誰にでも必要です」とコーチに伝えました。

「ありがとうございます。ここまで度重なってきたことなので…良いレッスンはみんなで一緒に作っていきたいです」と彼。本当にその通りだなと思いました。

強制帰宅を求められた保護者とその子がコーチを責め続けるのか、それとも何かを振り返るのか…知る余地はありません。それでも「僕には無理です」と言われたことは受け入れるしかないと思います。彼の指導が行き過ぎていないことは明らかなので。

子どもを甘やかせて育てても、厳しく育てても、それはその家庭の自由かもしれません(心が病むほどの教育をすれば、そのリスクを誰かが背負う可能性も出てきますが…)。ただ、誰かと関わってしか生きられない場所で、リスペクトを欠いた人間を育てるというのは避けたいところです。

「まぁ、同い年くらいの子やけど、まだちょっとわからないんかな。せっかく頑張って教えてくれてくれてるのに。テニスが下手なのは別に良いけど、コーチがイライラするようなこといっぱいしちゃうなんてちょっと、みんなハッピーじゃないね。そんなことする必要はないからね」

帰り際、自転車を漕ぎながら娘の言った「そんなことをする必要はない」という言葉は、結構的を射ているな〜なんて思ったのでした。

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三島菜央<🇳🇱オランダ在住/元高等学校教諭>
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