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留年した生徒を迎え入れた教室で

こんにちは!先日「オランダには留年や飛び級制度があって良いですね」というコメントをいただきました。私自身、子どものペースに合わせた学びの制度があること自体に異論はありません。ただ、そのコメントをいただいた後に、自分が勤務する学校でいわゆる留年した生徒が発生しました。

その生徒の表情の暗いこと。

前のクラスにいた時の様子を知っている私としては、心が痛みました。もちろん、新しいクラスになってからまだそこまで日数も経っていないからこそそう見えるのかもしれないのですが、目の前の生徒の表情を見ていると気持ちとしてはとても複雑でした。

今回は、留年や飛び級という制度の周辺で、人によって捉え方が異なることについて書きたいと思います。

留年・飛び級はそんなにシンプルな話ではないことも多い

以前、こんな記事を書きました。

この記事の中では、特にオランダに教育移住と称して移住される保護者の中に「最悪、子どもは留年させれば良いと思っています」というような発言があり、私自身がその言葉に感じる違和感について書いています。

この記事ではオルタナティブ教育(特にモンテッソーリやイエナプランなど)の異学年学級を形成している場合には、年齢の差異を感じにくいということにも触れています(その点に関しては魅力に感じますが、実際のところ異学年学級では教師の力量が大きく問われるので、一長一短といったところでしょうか…)。

私が勤務している学校は学年別でクラス分けされていて、いわゆるオルタナティブ教育の学校ではありません。カリキュラム自体はちょっと特殊ですが、いわゆる形態でいくと一般的な小学校です。

前の記事でも触れていますが、オランダの多くの学校において留年や飛び級というのは制度としては存在していますが、そこまで簡単に行われるものではありません。もちろん、学校においてそれが伝統的に頻発している学校であれば「あ、1年落としたのね」とか「あ、1年早くいくのね」というように扱われることもあるかと思いますし、4歳・5歳のクラス、いわゆる幼稚園クラスではそういったことも比較的頻繁に起きるような気がしますが、クラスで何人もの生徒が留年や飛び級をするというような話は今まで訪れた学校では聞いたことがありません。

子どもたちが向ける視線

さて、話を戻すと、1つ上の学年から下りてきたその生徒は明らかに周りよりも体格が大きく、正直、私自身も「1年の違いがこんなに体格差に出るんだな..」と感じたくらいでした。彼が年齢相応のクラスにいた時はそこまで気にならなかったことが、ここにきてとても際立っているように見えました。

これは担任が他の生徒にどのように説明しているかにもよりますが、ある生徒が私に「あの子、上のクラスの子なんだけど、うちのクラスに来ているの…なんで?」と聞いてきました。

恐らくこれまで一緒のクラスだった子たちの中に「別の子が来た」という感覚を抱いていて、それが何故なのかを私に聞きたかったのだと思います。私はその時、まだ情報を共有してもらっていなかったので「私も何故かわからないの、今は」と答えました。

たった50分、その授業でその子を含めた子どもたちの様子を見ていただけですが、当該生徒の表情は暗いし、周囲の子もその子に話しかけている様子はありませんでした。

もちろん、これは最近起きたことなので、まだ子どもたちが馴染んでいないというのはあるとは思いますが、子どもたちの行動というのは良くも悪くも残酷だなと思うところがあります。無邪気に、無垢に、そういった行動に及んでしまうところもまた、子どもたちなのです。

ポジティブに捉えようとしているのは大人だけ?

私が個人的に感じていることに関して言えば、オランダの学校に子どもを通わせている保護者の多くは「順当に学年を進んで欲しい」と感じているように思います。それは、教職員からも耳にする言葉です。

でも一方で、そういった制度がそもそも存在しない日本の感覚を持った人たちの中には「留年や飛び級制度があって良いじゃない」とポジティブに捉えがちの人も多い気がします。それはむしろ「みんなが同じようにさせられること」に対するアンチテーゼとして捉えているだけで、留年や飛び級を当該生徒が実際にどう感じているかを置き去りにして考えているようにも見えます。

もちろん、皆んながみんな同じペースで成長する訳ではないし、それぞれの成長に合わせたルートが用意されることはとても大切だとは思いますが、「ルートが用意されるだけ良いじゃん!」と考えるのは、あまりにも的を射ていないというか、あまりにも楽観的過ぎて子どもの気持ちを無視しているというか…

実際に教室でその生徒を見た時に、教師として感じることはたくさんありました。その様子はきっと、今後保護者が見ることのない教室での様子でもあるのでしょう。

居場所としてクラスを認められるように

とはいえ、学校として下した判断に対して私たちができることと言えば、彼がこの教室を「居場所」として認められるように授業を行うことです。授業の中で彼が溶け込めるようにすることを念頭に置きながら進めていくことが私たち教科教員にできること。

今日はあまりにも表情が暗くて溶け込んでいる様子ではありませんでしたが、これから溶け込めるようになっていくかもしれません。…とはいえ、この状況が彼の心に何を与えているのかが気になるのが、この仕事をしている人間の心に浮かぶもの。

今日は何だかとても複雑な気持ちが渦巻く1日でした。教育制度に関しては「隣の芝生は青く見える」に尽きる気がします。でも実際、より青く見える芝生の上で寝転がってみたらどんな気持ちなのかは、実際に寝転がってみるまでわからないのでしょう。

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三島菜央<🇳🇱オランダ在住/元高等学校教諭>
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