「(英語)学習の方法」が身についていると感じた高校生の特徴
こんにちは!今日は少し過去を遡り、かつて私が高校で英語教諭をしていた時に「英語学習が伸びるな〜」と感じたり、実際に伸びていった生徒にあった1つの特徴について、あくまでも主観的な観点から書きたいと思います。Voicyでもお話ししていますので、ご興味がある方はそちらもどうぞ。
「英語嫌い」から始まる高校生活
高校で英語を教えていて驚いたのは、高校に入学した時点で「英語は嫌いです」とか「英語は苦手です」という生徒の多さでした。中学の時点でかなり「英語はわからないものだ…」という感覚を得てきてしまっているということなのだと思います(これは中学校英語の方法が悪いとかそういう意味ではありません)。ここで考えたのは「高校英語を通して、吐きそうになるくらい英語が嫌いになる」ということも場合によってはあり得るだろうという危惧です。苦笑
高校の英語というのは基本的に中学校の英語を基礎として、その高度化を図るものです。皆さんが中学校で習ったような「現在進行形」や「現在完了」といった文法に関して言えば、それをさらに高度化していくのが高校英語の1つの役割とも言えます。また、英単語の語彙数もぐんと増えて、文法を活用して高度化や難度化した文章を読めるようになります。
しかし「英語は苦手」という意識が既に芽生えていると、その部分を「癒す」ところから始めなければいけないことも多いと感じていた私。「中学校の時の英語の授業」をいかにポジティブに脱することが「高校の英語」であるかという印象を与えるキーだと考えていました。
学習とは「正しい答え」を得ることだけではない
私は個人的に、副教材等を配布した時や、独自の学習プリント等を配布した時には、同時に解答も配布していました。生徒は教材にまつわる「フルセット」と受け取ることで、準備万端の状況になります。
この時、「わー!解答までもらったら、答え写すだけで提出物とかいけるやん!」という風に思う生徒がある一定数出てきます。特に、生徒との関係性が十分に出来ていない状況においては、このような生徒の割合が多くなるように思います。
こういった生徒の中にあるのは「学習=点数を上げること」という強い感覚です。もちろん、最終的に点数に繋がることに越したことはありません。ただ、とても即物的に学習を捉えていると、「解答の配布=楽できるものの入手」となります。そういった生徒には、そこから時間をかけて、学習とは"結果的に"教師から点数を与えられる行為であるけれど、そもそもの学習とは自分のためにするものだ。という話をしていきます。ただ、これを理解するは精神的な成熟度が必要になるのも事実です。よって、学習に対する姿勢に変化が出るまでには個人差があります。
学習とは仮説と検証を繰り返すことである
精神的な成熟度が増してくると、学習とは他者からの評価を得るためにするものではなく、自分の成長のためにするものだという風な理解が進みます。ただ、そうは言っても「知らないことを知るための学習」とは、時にとても苦しく、長い道のりでもあります。
学習の段階で人は「仮説」を立てます。「この答えは○かな?」とか「この文法問題の空欄は3番の"over"である」という風に、自ら仮説を立て、さらに言えばそこから何故そう思うのかという根拠に自分自身で迫りながら学習する生徒もいます。
そして自分なりの解答を導き出して答えを照合した時、学習者に求められるのは「検証」という行為です。例えば、このような問題があり、AとBの生徒がいたとします。
<A生徒の場合>
この問題は"be going to 動詞の原型"という未来を表す表現であるため、( )にはleave(出発する)の原型である"③ leave"が入る。
<B生徒の場合>
未来っぽいけど、この中でどれが適切かは確証が持てない。"① leaving"は何か変な感じがするから、"③ leave"で良いか。
この生徒は両者とも正解を得ますが、その根拠の強さには違いがあります。
A生徒の場合はほぼ確実な根拠を得ているから良いとして、Bの生徒は正解こそ得ましたが、正直本人も「何故、正解を得ることができたのか」に自信が持てません。それは「1/4の確率で当たった」という感覚に近いものです。
ここから伸びる学習者ととそうではない(かもしれない)学習者の道が分かれると考えます。
お分かりの通り、伸びる学習者は②のパターンだと言えます。
パターン②の生徒の中に芽生えているもの
パターン②の生徒に芽生えているものは「学習に対する誠実性」だと言えます。言い換えれば「わからない自分を受け入れる」という精神的な成熟性と、学習に対する真摯な姿勢、誠実な態度を持っているということです。
「解答を間違えること」に強い拒否感や落胆感を持っていると、「間違える自分」を誤魔化したり、隠したくなります。間違えること自体は「学習の過程」であるにも関わらず、です。もし、学習そのものが、
「自分の意思によるものではない」場合や、
「他者の評価や過度な期待によって行われている」場合
には、パターン②の生徒のような姿勢はなかなか現れません。できればパターン①の楽な方法、ラッキーを受け入れる方法で学びたいと思うものです。
パターン②の生徒は、自分の間違いに対して誠実な態度を貫きます。簡単に言うと、「わからないまま放ったらかしにしておくのは嫌だ(何故なら私は自分のために間違えた理由を明らかにしたいからだ)」と思うようになります。
この「分からないまま放置しておくのは嫌だ」という気持ちこそが自ら学び続ける生徒の中にある「譲れないもの」になっていくのです。
「やらされている」という感情がもたらすもの
上に書いたように、いくら保護者が順当に単位習得して欲しいと願っても、大学受験のために懸命に勉強して欲しいと思っても、
「自分の意思によるものではない」場合や、
「他者の評価や過度な期待によって行われている」場合
の学習過程には「やらされている」という気持ちが拭えない生徒もいます。内発的な学習動機を本人の中に生み出すために、多少の外発的な動機づけが必要なこともありますが、外的な動機づけが過度になってしまうと、逆に内発的な動機づけは「傷を受ける」という表現が適切だと感じます。
傷ついてしまった内発的な動機づけを受け持つ部分は、まずは「癒す」ところから始めなければいけません。それに時間がかかる生徒もたくさんいました。また、そのような「傷つき」は基本的に不要なものですが、保護者の焦りや虚栄心によって生徒が傷つく場合もあります。
一旦、保護者の叱咤激励が上手く働いていると感じる場合でも、実は生徒は保護者の見えないところで答えを写したり、やったフリをしたり、「見せかけの学習」の演技だけが上手になっていく場合もあります。高校生ともなれば早くその段階は抜けて欲しいと思うのですが、実はその感覚は小学校の頃から本人の中で「当然のこと」として成長してきたものだったりするのです。
個人差はあれど、パターン②のような生徒の保護者と話をすると、「この子が好きなようにするのを見守ってきました」という姿勢も多く、生徒自身も「親から過度に何かを強制された経験はほとんどない」と語る生徒も少なくないように思います。結局、そういった幼少期からの積み重ねが、青年期に現れるということなのかもしれない、と高校教師として仮説を立てていました。
今日紹介した「英語学習が身についていると感じる高校生」は、私が経験する中で観察してきた生徒の1つの例でしかありません。一方で、高校生が精神的な成熟を迎え、自分自身の進路選択や将来についてある程度の道標をてに入れるとしたら、それは学習の中で身につけた「学習への誠実性」の中で芽生えたものを根拠としている場合も多く、「自らのために学ぶ」という種を周囲とともに大切にしてきたからなのではないかと感じます。