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東大の殺傷事件を「本人のせいだ」と言う人々が作る社会の歪み

昨日の夜、速報で流れてきたニュースに目を奪われました。

記事の内容をこちらに。

15日朝、大学入学共通テストの会場になっている東京大学の門の前で受験生など3人が切りつけられてけがをした事件で、殺人未遂の疑いで逮捕された名古屋市の高校2年生の男子生徒が「医者を目指していて東大に入りたかったが、成績が落ちてきて悩んでいた」と供述していることが捜査関係者への取材で分かりました。警視庁が詳しいいきさつを調べています。
15日午前8時半ごろ、東京 文京区の東京大学の門の前の歩道で、大学入学共通テストの受験に来ていた18歳の男子高校生と17歳の女子高校生、それに72歳の男性が包丁のような刃物で切りつけられました。

3人は背中付近を切りつけられて病院に運ばれいずれも意識はあるということですが、72歳の男性が重傷だということです。

警視庁によりますと、名古屋市に住む17歳の高校2年生の男子生徒が現場で取り押さえられ、殺人未遂の疑いで逮捕されました。

男子生徒は受験生ではなく名古屋市内の高校に通っていて、14日、自宅に帰らなかったため家族から行方不明届が出されていたということです。

また、調べに対して「医者を目指していて東大に入りたかったが、1年前から成績が落ちてきて悩んでいた」と供述していることが、捜査関係者への取材で分かりました。

さらに「事件を起こして死のうと思った」とも供述しているということです。

男子生徒は14日夜、名古屋から高速バスに乗り、15日午前6時ごろに東京に着いたということで「包丁を自宅から持ちだした」と説明しているということです。

警視庁が事件の詳しいいきさつを調べています。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220115/k10013432501000.html

私は彼のことを知らない。でも、彼が生きる社会をつくる一員です

私は彼のことを知りません。でも彼と繋がっています。
それはつまり、私が大人として生きてきた社会を彼と共有しているからです。

こういったセンセーショナルな事件が起きると、キーワードさえ入れるとありとあらゆる記事が検索結果に表示されます。「事件について知る権利」を主張し、懸命に彼の身元や家族構成、出身校、事件に至るまでの道のりを明らかにしようとする人たち。

そして、その情報をスクロールで消費する人たち。

「人に迷惑をかけるな」
「死にたいのなら、誰も巻き込まずに死ねばいい」
「受験なんて人生の一部でしかないのに、何を考えているんだ」

そんなコメントを残す人たち。

そんな人たちもまた、この事件を起こした17歳の彼と同じ社会を共有しているように思うのです。

高校生に走る受験の緊張感

私は元々、公立の高校で英語教諭として働いてきました。私が教えていた生徒の大半は、受験生と呼ばれる高校3年生です。
今回事件を起こした17歳は高校2年生ですが、「もうすぐ高3の高校2年」はもうこの冬から「来年の冬は…」とプレッシャーをかけられる場合もあります。

「浪人はできません。そんなお金はないんです」
「やりたいことが何かわからない。でもより良い大学に進学しないといけない」
「受験のためなら塾に入るように言われました。家にはお金がないのに」

高2でも高3でも、そんな風に涙目で訴える生徒が何人もいました。
「失敗できない」「親を裏切れない」「出来損ないにはなれない」
何故、そんな恐怖の中で"多くの生徒"が生きなければいけないのか?

その道から外れる恐怖を受け止めてあげる、話を聞いてあげる。
それも教師の仕事の一つでした。

受け止めながら思いました。
「この恐れや恐怖は、本当に"多く"が経験"すべき"ものなのだろうか」と。
「苦労は買ってでもせよ」が一律に存在するシステムが、本当に公平性を保っていると言えるのか。と。

起きた事象ではなく、そこに至った"いきさつ"を考え、変化を加える力が社会にあるか

「この事件が起きた原因の一部は、私にもあるのではないか」

大袈裟かもしれません。私は彼を知りません。
彼は私を知らないし、きっと彼も私のことを知らないでしょう。

だけど、どうしても他人事には思えないのです。
それは、私が17歳や18歳の声を聞き続けてきたからでしょうか。

今、(私を含め)日本の社会に、教育に、この事件を受け止められる力があるでしょうか。その歪みを整えようとする気概があるでしょうか。

1997年の神戸連続児童殺傷事件も、
2001年の附属池田小事件も、
2016年の相模原障害者施設殺傷事件も、
そして今回の東大の殺傷事件も…

(自分を含め)私たちは一つ一つの事件への"いきさつ"を考え、情報を消費するだけではなく、そこから得た学びを社会のあり方に接続してきたのか。

今回の事件は、私には"社会の歪みに向けた悲鳴"に聞こえます。

何故「東京大学」なのか、別の場所でもあり得るのか

この事件が一際目を引いたのは、事件が発生した場所が「東京大学」だったからかもしれません。同時に、この事件が東大で起きたことは、社会に対してどんなメッセージを送っているということなのかを考える必要があると思います。

終身雇用制度は崩壊しつつあり、学歴よりも学習歴だと言われる時代において、今もなお知識偏重型の教育や学習方法に悩まされる受験生たち。

日本の教育は少しずつ変化しているとはいえ、「人は何故生きるのか」「自分は何者なのか」「自分はどこへ向かうのか」「何故学ぶのか」そういった哲学的な対話よりも、より多くの知識を詰め込み、それを上手く表現できたものが勝者と呼ばれる教育制度、受験制度の中で、1番の矛盾を感じているのは当事者なのではないかと思うのです。

自分に社会を変える力もあると知らされない、学び得る機会を奪われ続けた彼らは、大人が作った法律と制度の中で、矛盾に気づきながらもその道を生きるしかない。ある意味、生き地獄を生きているのではないでしょうか。

きっとこの先も、こういった事件は増え続けるでしょう。
悲鳴の数が、悲しみの数がある一定数に達しなければ、社会は変わらないのでしょうか。その過程で失われる人々の命や未来への希望は、社会が次の"こたえ"を得るためには不可避なのでしょうか。

8年連続で増え続けた不登校生徒の数を突きつけられてもなお、このシステムエラーは改善点を得られていません。学習や成績へのプレッシャー、人間関係などの「学校への不適合」を起こしている生徒の数が増えてもなお、教育から外れたことへの批判の方が多いから、システムは改善を得られていないのではないでしょうか。

「先生、社会って生きにくいよ」
私は自分の元を旅立っていった生徒が、そんな風に漏らさなくてもいい社会を作りたいなと思います。そのためには、今回の事件を決して他人事で片付けない強さが必要だと改めて感じました。

17歳の彼が刑期を終えた時、彼が目の前にする社会が「少しは(いい方向に)変わった」と思えるように。

彼が犯した犯行は決して社会的に許されることではありません。
しかし、「彼がそんなことをせずに生きられたはずの人生」を何故得られなかったのか。そこを考えたいと思う次第です。

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三島菜央<🇳🇱オランダ在住/元高等学校教諭>
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