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私たちは自分が受けてきた教育を客観的に否定できるだろうか?

現職教員として働きながら、日本の学校教育の在り方を見つめている時、
「教育は人の人生だ」と強く思っていました。

それは、一人ひとりの人生の一端を担っているという意味でもあり、
「教師自身が自分の受けた教育から抜け出せない」
という意味でもあります。

つまり、生徒を教える教師もまた、
自分自身が受けてきた「教育」という洗脳のようなものから、良くも悪くも抜け出せない。ということです。

教育は日々進化しなければいけません。
何故か。
それは、時代が前へ前へと常に進んでいるからです。

時代が少しずつ前に進んでいる時、私たちの生活に劇的な変化はあまり起こりません。

どれだけ技術が進歩していても、
ある日突然、車は突然空を飛ぶようにはならないし、
ある日突然、家電量販店でドラえもんが発売されることもないし、
ある日突然、お手伝いロボットが各家庭を訪れる日はきません。(たぶん)

しかし、確実にテクノロジーは日々進化しています。
そして、そういった技術革新は私たちの生活を長年に渡って、徐々に変化させてきました。

その度に、「自分ではない誰かの仕事」がテクノロジーによって奪われ、
同時に、新しい仕事が世の中に輩出されてきました。

しかし、「自分ではない誰かの生活」が傾き、時に窮地に立たされることは、そうではない人たちにとって「関心ごと」ではありません。

つまり、自分の身に起こらない不幸や不便に対して、なかなか当事者意識を持つことは難しい。ということです。

でも、その「関心ごと」ではないことが、いつの日か自分に降りかからないとは言い難いのが21世紀ではないでしょうか。

教育とはそんな時代、そんな状況に直面することを予測する力や、
仮に直面してしまった時に方向転換ができる能力を育む活動を指すと思っています。

前置きが長くなってしまいましたが、仮にその時の「適応力や順応力」が教育によって育まれるのであれば、教育はいつも「先読み」が得意でなければいけないと思います。

ということは、教師がいつまでも古い価値観の中で生きることはとても危険で、日本において教育活動が日本全国、津々浦々で展開されていることを考えれば、「先読み」が出来ない学校や教師が行う教育活動は、未来を生きる子どもたちにとって悪害でしかない。ということです。

そして、新しいものを生み出すには、
「自分が享受してきたもの」を疑う力が必要だ、と感じます。
それはつまり「自分にとっての当たり前を問う」ということです。

時代が前に進んでいるということを理解できれば、
自分が受けてきた教育の一部や全部が、今に通じないことは明らかです。

しかし、自分が人生を通して享受してきたものを、客観的に、そして時には否定的に見つめることは簡単なことではありません。
何故か。
それは、自分のこれまでの人生を否定することにも繋がるからです。

私は、自分の人生の中にある「あらゆる教育」を、客観的に評価することが出来ない教師が多いと思っています。(時に自分も含め)

「必死に受験勉強をして良かった」
「血を吐く思いで部活動を続けてきて良かった」
「校則を(訳もわからず)遵守する心は学校で育まれた」
「時には、理不尽な教育も自分のためになったと思う」

それは単に、それらの教育が今日の自分を作ったから。
そして、僕/私は今日も立派に生きているから。

人はそうやって「今の自分を作ってきたもの」を正解だったと思いたい生き物なのかもしれません。

しかし、教育には客観的に否定する力が必要だと感じています。
「私の時はね...」と話をするのは良しとしても、
「だから、あなたもそうした方が良い」は通じない時代です。

これまでの教育は、ほとんどが通用しないかもしれない。
それくらいの意識で日々の教育をアップデートしていかなければいけない時代に突入しているような気さえします。

さて、大人たちはどれほど、自分が辿ってきた教育を否定できるでしょうか。そこに「これまでにはない教育の未来」があるような気がしています。




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三島菜央<🇳🇱オランダ在住/元高等学校教諭>
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