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宿題がないと不安?

こんにちは!1週間ちょっとの秋休みが終わり、今日から平常運転のオランダ。ここから年末の冬休みまで突っ走ります!

さて、今日は「宿題」の話です。


宿題がない小学校1年生の娘

娘はオランダの現地校に通い、宿題という宿題を一切持ち帰ってきません。
「こんなこと学校でやってるよ」くらいのプリントや冊子を持ち帰ることはあっても、「これをいつまでに」というような宿題は持ち帰ってきたことがありません。

ただ、時々「こんなことやってみて〜」くらいの軽いノリで配布されるプリントはあります。また、それに合わせてアプリで「こんなプリントを配りました〜」と連絡がきて「家でもやってみてください〜」と書かれています。

保護者のサインが必要だとか、学校に忘れず持っていって提出しなければいけないとか、そういった類の宿題は今のところありません。(もちろんオランダの小学校であっても宿題を課しているところはあります!)

宿題がない娘に何が起きているか

では、娘は家で全くオランダ語の学習(筆記体の練習や、計算など)をしないのかと思いきや、持ち帰ってきたプリントをダイニングテーブルに置いておけば、思い立って何やら自分なりにやっていることがわかりました。(もちろん毎日なんかじゃありませんよ!)

「ちょっと聞いて、読むから聞いて!」
と言われれば料理の手を止めて耳を傾け、オランダ語の音読を聞き、

「この紙、自分のノートに書き写してみるわ」
と言えば、自分のノートに延々と文字を書き写し、

「お母さんお父さん、オランダ語のレッスンしてあげるわ」
と言って、先生ごっこを始めます。

彼女には宿題はありません。
でも、宿題がないことは必ずしも悪いことではないと思っています。
何故なら、「自分の興味関心&(たまにやってくる強烈な)タイミング」に合わせて彼女なりに学習を進めているからです。

勝手に自分なりの勉強を始める娘

そこに「やらなければいけない」とか「やるべき」という感情はなく、「やりたいからやる」という純粋な欲求しかありません。
そして、その「やりたい」という学習意欲は「やらされる」よりも強烈なパワーを持っているんだと思い知らされています。
(何度も言いますが、毎日娘が自主学習をやっているわけではありませんよ!笑)

全く教えていない小学校1年生の漢字を半分制覇したのは何故...

これは自慢でも何でもなく(というのも、私たちは何もしていないため、自分たちの成果とも言えないので。爆)、娘はオランダの学校で文字を習い始めた頃から日本語や漢字に対して強烈に興味を持ち始めました。

私たちには娘への日本語教育における失敗談があります。

娘が5歳の頃「そろそろ日本語を書いたり読んだりを始めようか...」と少しドライブするように娘に日本語を教えようとしたことがありました。
その時、あまり乗り気にならない娘に、少し強制的に教えようとしたことがあったのです。

ただ、しばらくしてから夫が娘の様子に気づき、

「本人がやりたくない、喜んで"日本語やる〜!"と飛びついてこないのに、"やった方がいい"と押し付けるのは間違っていると思ってきた。自分たちの"日本語学習をやった方がいい"はただのエゴなんじゃないかな」

と言いました。

「たぶん、この子にはこの子が学びたいと思うタイミングがあると思う。今は本人がやりたくなるような環境を用意するだけにして、本人が"やりたい"と言った時にはきちんと寄り添えるように準備だけしておこう」

その言葉を2人で噛み締め、そこからはひらがなのポスターを娘の机の前に貼ったり(もちろん娘の許可を得て)、絵本をこれまで以上にたくさん読んだりして(もちろん娘の意向を聞いてから)、娘が「やりたーい!」と思える環境づくりや習慣づくりだけにフォーカスしてきました。
(この期間には少なからず焦りもあって、忍耐力が試されました....)

そして、ついに彼女の中に「学びたい」という欲求が生まれた時、その推進力は私たちが驚くくらいの勢いで、ひらがな、カタカナ、そして小学校の漢字までも瞬く間にマスターし始めたのです。

今も私たちが続けているのは、相変わらず環境づくりをしながら待つことと、とにかく娘を観察して、彼女の知的好奇心が発動したことを見逃さないことです。
これが意外とシンプルだけど難しい。こちらの忍耐力と観察力が試されます。でも、逆に言えば「勉強やろうよ」と声をかける必要も、「やりなさい」と言うこともなくなりました。

「(根気よく)見守ること、環境を整備すること、観察すること」
を怠らなければ、互いにとってwin-winなのだとわかりました。

宿題が欲しい高校生?日本人?

教師になって数年後、私は生徒に宿題を出すことをやめました。
もしくは、宿題を課しても「任意」とすることにしました。

私が宿題を課さないことで、
「先生、宿題出してください」
「宿題がないと勉強できません」
「先生は宿題チェックがめんどくさいんですか?」

と声をかけてくる生徒が思ったよりも多くて驚いたことを覚えています。

この「宿題が欲しい」というのは一体何を意味しているのか?

それはつまり、
「学習の仕方がわからない」
「何かを解いていないと不安」
このどちらか、もしくはどちらともからくる不安を払拭するために、宿題というものを欲しているのだということが見えてきました。(必ずしも2つとは限らないと思いますが)

とどのつまり、それは「自分が何を学習したらわからないから、何かください」ということなのだと思います。
自分が学びたいことも、何を学ばなければいけないかも、よくわからない、もしくは考えたくないから、何かおくれよ。ということなのか...?と。

本来、学習は「消費するもの」ではありません。

学習者の主体性に基づいて取られる行動が「学ぶこと」であるとするならば、一辺倒に課される宿題とは学習者の「学びたい」という欲求に反しているのでは?と思っています。

そして、仮に保護者が「うちの子にもっと宿題を!」と思っているとするならば、そこに肝心な「子どもの意志」はないのかもしれません。
つまり、保護者自身が子どもに主体性を与えることを恐れているということなのではないかと思うのです。

学習することの意味がわかれば、宿題を欲しなくなる

私が学習者に願うことと言えば、「宿題がなくても学習する姿勢」かもしれません。

それはつまり、何故学ぶのか、何を学ぶのか、どうやって学ぶのかを理解している状態だと言えます。適切な教材と自分の学習スタイルが確立できていれば、宿題は必要なくなります。

むしろ不適切な宿題に対して「今の私に必要なのはそれではない」と言えるようになるのではないでしょうか。

事実、自立した学習者だった生徒たちは自分が何をすべきなのかが見えていたように思います。必要な時にだけ私を頼り、「困ったことがあれば声をかけてね」と言えば、「ありがとうございます!」と、自分の学習に戻ります。

宿題を求めることも、課題をくれと言うこともほとんどありません。
求めるのはいつも「アドバイス」であり、自分がどこに戻るべきかを知っているように見えました。

「与えられること」に慣れさせてはいけない

学習とは本人の主体性に基づいた行動であるとするならば、主体性を確立するための過程で必要以上に関わることは、その成長を阻む行為かもしれません。

とりわけ「与えられること」に慣れている人は、素っ裸にされると何をどうして良いのかわかりません。「どうしたらいいのか」と考える機会を奪われ続けてきたのだから無理もありません。

実は私は今、オランダ語のレッスンを前に奮闘中なのですが、現段階では宿題はありません。しかし、宿題がないことでオランダ語の学習が止まることはないのです。

何故なら、私は私にフィットする学習法を知っていて、どんな学習が自分に必要かがわかっているからです。

宿題を与えられない娘と、宿題を課されていない私。
今後どんなふうに成長していくか、自分たちの成長が楽しみです。(もちろん意欲の維持が大変!!)





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三島菜央<🇳🇱オランダ在住/元高等学校教諭>
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