日本で体験した変なこと -私を非常識と呼んだおじさん編-
2年ぶりの日本で約3週間滞在しましたが、その間にいくつか変な体験をしました。今回はその1つ。私に対して非常識だとおっしゃってくださったおじさんについてです。ご興味がある方はお読みください。笑
コロナ感染者数がうなぎのぼり(だったらしい)日本
私たちが帰国した時、日本ではコロナの感染者数がうなぎのぼりでした。私たち家族は一度もワクチン接種をしていないため、日本への帰国はある一定のリスクを含みます。ただ、過去に罹患したことを思い出せば「まぁあれくらいで済めば問題ないか」という感じ。もちろん、前回よりも重症になるリスクもありますが、リスクばっかり考えても仕方なし。(ちょっと壮大すぎるけど)結局、人は死ぬ時がきたら死んでしまうものです。
ということで、帰国に際して「コロナが〜」という枕詞は必要なくなりましたが、日本入国のために必要なPCRテストなどは受ける必要があったため、所定の手続きを経ての入国となりました。
はて、オランダで最後にマスクをしたのはいつだったか
オランダでマスクを最後にしていたのはいつだったか…もはや思い出せませんが、随分と昔のことのように思います。それも、公共交通機関や店内に入る時のみ(無着用は罰金)で、外を歩く時にマスクの着用が義務付けられたことは一度もなかったと記憶しています。
こちらでは試験的にマスク着用を義務付けた後、早々に「マスク着用は感染拡大防止に役立たない」という結論に達し、「マスクなんていらなくね?意味なくね?」というような雰囲気になりました。日本で暮らす花粉症の人々がマスクをするように、マスクへの抵抗感が少ない日本ですが、こちらでマスクをする時は「重症な病気罹患中なう!」という感じになるので、基本手的にマスクを忌み嫌う人が多いことにも頷けます。
NOマスクの日本滞在
日本滞在中、私たちはマスクを着用していませんでした。日本への反抗!とかではなくて、ただ単に息苦しいし、マスクの有用性について説明がつけられないのに、その息苦しさを受け入れられない…というのが正直なところです。
外出時、両親には「マスクつけたら?何か言われたらどうするん」と何度か言われましたが「何か言われても別に構わんよ」という感じでした。その都度、その人と話をすれば良いのです。
7歳の娘は人生で一度もコロナ起因でマスクを着用したことがありません。「子どもにまで強いるのはかわいそうだ」という合意が生まれる社会で、子どものマスク着用は何らかのかたちで彼らの未来に悪影響をもたらすものであると考えられているようにも見えます。また、保護者としては、自分の表情をしっかり子どもに見せられる大人でいたいという選択をしています。
意外と若者に多い、NOマスクの人たち
周囲を見渡してみると、マスクをしていない人は若者に多く、何だか安心しました。物事を自分の判断基準に基づいて行うことは悪いことではありません。そこに相違があれば、話し合えば良いのです。もちろんその時に、話し合う姿勢を持つこと、そして話し合う作法を知っていることはとても重要です。相手に対して怒鳴ったり、高圧的な態度に出る必要は全くありませんし、その行為自体は非難されるべきだと思います。
「誰かに何かを言われるのが面倒だ…」
というのはある意味、相手の出方に違和感を感じるからかもしれません。そうだとしたら、根本的に改められるべきは「議論する時の作法」を知らないことであって、何か言われるのが嫌だからマスクを着用することにするという行動ではないのではないか。人と議論することを避けるためにマスクを着用することは、消極的対応だと私は感じます。
とは言っても、何かを言われる度にそうやって「話し合いましょうなんてやってらんね〜。」という気持ちも理解できます。
ただ、私の個人的な価値基準としては、マスクを着用するくらいなら、対話する面倒くささを取りたい。というところでした。
「非常識じゃないか」と言ってきたおじさん
さて、前置きが長くなりましたが、東京で過ごしたある日の夜。20時頃からオンラインのMTGがあったので、義則と娘とは別行動をして、NOマスクでホテルのロビーにいました。
私の後ろ側には展示用の櫓(やぐら)があり、私はそれに背を向けるようなかたちで座っていました。しばらくすると、2人連れの夫婦(?)が後方の櫓に近づき、何かを話していました。私はちょうどスライドの最終確認を行っていたところです。
すると、私の背後に(今思えばわざわざ)男性が回り込んできました。そして、
「マスクもせずにここにいるなんて非常識じゃないか」
とボソっと言ったのが聞こえました。私に話しかけているような声量ではなかったので、最初は聞き間違いかと思い、私はスライドの完成に勤しんでいたのですが、その後も何やら聞こえてきます。
「何でマスクをしていないんだ」
「おや?これは私のことか?」と思って後ろを振り返ると、そこには男性が立っているのですが、櫓の方を見て喋っています。
「私のことならこっちを向いて言ってくるか…」と思い、また向き直って作業を進めました。これを「だるまさんがころんだ状態」と名付けます。←
すると、私の編集中のスライドを見たらしく、
「オランダの子どもの幸福度?マスクをつけてないから幸せなのかなぁ〜」
と、今回は結構クリアにその「ひとりごと」が聞こえてきました。この状態で"オランダ"と聞こえたら、(たぶん)私のことだと鈍感な私でも気づきます。笑
「これは完全にあたしのことでは?!」
と思ったので、振り返ってみると、その男性は向こうを向いて去って行ったのです。その時、一緒にいた女性が「もうやめてよ」と言いながら一緒に去っていくのも見えました。
「…あれ、対話できなかった」
というのが正直な感想でしたが、高度な「だるまさんころんだ」に敗北感を感じました。←
それと同時に、
「あぁ、これがいわゆる"何か言われるのがめんどくさい"という状況か〜」
というのを実感したのでした。幸い、鈍感な私に心的ダメージはありませんでしたが(爆)、こういう陰湿な経験をすると傷つく人もいるだろうなと感じました。
自分の行動が「正義」だと信じ込んでいるのは何故なのか?
私が気になったのは、かすかに聞こえてきた「非常識」という言葉でした。
「自分は常識人で、あなたは非常識人です」
個人的には「何故その結論に至れますか?」という感じでした。そして、何故自分の行動が「正義」だと思い込めるのか?そこに疑問を感じました。
常識や正義は人によって異なります。
ある人からすれば、コロナの感染者数が増えているこの時期にホテルという不特定多数の人が集う場所に出かけること自体、非常識かもしれません。だとしたら、誰かにとってその男性もまた非常識な人間なのです。
また、ここで根本的に抜けているのは、「人によって判断は異なる」ということ、さらに言えば「人はそれぞれ違う」という考え方です。自分が(勝手に)信じる「常識」や「正義」に他人をあてはめたい、当てはめることが出来ると強引に信じることが出来るのは何故なのでしょうか?テレビがそう報道するから?メディアがそう伝えるから?学校教育でそう習ったから?
だとしたら、あなた自身の考えはどこにありますか?
このように均一化された価値観が「常識」だと捉えられがちなのは、日本が同質性の高い国だからだと言えますが、このような考え方を多くの人々が持っているのだとしたら、これこそが日本が多様性を受け入れ難い一つの原因だと感じました。
ちなみにですが、その日の私は旅行の都合上、陰性証明を所持していました。もちろんそれはそのおじさんが知る由もないことですが、「その人にはその人の事情がある」というところに想像力が働かないのも問題だと思います。
私たちは全知全能の神ではありません。
他人の状況も、その人の状態も、知らないのです。だからこそ、勝手に人の価値観や状況に土足で入り込むことは憚られるべきだと思います。
相手に(たまたま)聞こえるように言うのではなく、適切な方法で話しかけた方がいい
一方で、私たちがお互いを知らない状態でありながらも誰かに自分の主張やメッセージを伝えたいのなら、そこには作法があります。この男性が自分が信じる正義を私に伝えたいのであれば、その方法は「ひとりごと」であってはいけません。
きちんと私に聞こえるように、目を合わせて伝えるべきです。相手を威嚇せず、感情で発言するのではなく、伝えたいメッセージや主張が明確に伝わるように話すことが求められます。
そうでなければ、放たれたメッセージや主張は意図しないかたちで相手に伝わることがあります。たまたま私は今回の経験で傷つきませんでしたが、陰湿な方法で伝えることで傷つく人もいます。それは、受け取り手の心が弱いのではなく、メッセージの伝え方が適切ではないということです。
メッセージや主張を伝える根本的な目的が問題解決だとしたら、余計な感情を交差させるような方法は必要ありません。だからこそ、伝える側も受け取る側も感情的になる必要はありません。
日本にはこういった「陰湿な方法」を取る人がたまにいます。私にはそれはまるで「学校でのいじめ」そのものに見えます。
私を非常識と呼んだおじさんへ。
あの日の私は陰性証明を所持していましたが、きっと所持していなかったとしてもあそこに座って仕事をしていたと思います。私を非常識な人間だと決めつけたあなたの陰湿な行動は、誰かにとってもまた非常識な人間がとる行動だと判断されるかもしれません。
私たちは世界で起きるすべてのことについて何も確かなことを知りません。コロナのとは一体何なのか、何故ワクチンを接種した人も罹患し死に至ることがあるのか、基礎疾患があったとしても重症化しない人がいるのは何故なのか、ワクチンを接種して亡くなってしまう人がいるのは何故なのか。
これだけ人類が進化し、研究が進み、医療が発展しても、私たちにはわからないこと、知らないことがたくさんあります。そして、人の心のことや価値観となると、それはもう「知らないこと」が前提なのです。
だからこそ、私たちは相手へのリスペクトを持って接し、議論をしたり、問題解決に臨む時は、より一層注意をしなければなりません。アプローチを間違えることで不用意に人を傷つける必要はないし、結果的に分かり合えないことも時に容認しなければいけません。
その点に関して、あなたは無知だったと言えるのではないでしょうか。あなたの主張を伝えたい相手が私ではなく、他の誰かだったとしたら、あなたのとった行動は脅威だったかもしれません。
もう一度言いますが、メッセージや主張を伝える時、人に恐れを感じさせたりする必要は一切ありません。
そして実はそれは、オランダの子どもたちが4歳から学ぶことなのです。
ただ、あなたがそれを知らないことであなたを責めるつもりはありません。でも、次から不用意に被害者を増やさないために、あなたがそれをいつかどこかで知り、その後の行動が変われば嬉しいなと思います。
あの日あのホテルであなたが私に教えてくれたことは、私自身が物事を考える上でとても価値があったと言えます。でも、あなたがとったあの陰湿な行動は人を傷つける可能性があることを思うと、今後はそういったことがないと良いなと思っています。