子どもはボーダーラインがわかりやすい大人が好き?
こんにちは!
今日は大人が示す「ボーダーライン」について書きたいと思います。
児童生徒の前に立ち「教師」という役割をしていると、
子どもの前で「保護者」という役割を担っていると、
子どもに「ボーダーライン」を示す必要性を感じることがあると思います。
オランダの教室でも、子どもたちは常に「ボーダーライン」を探っていて、
「これ以上、話を聞かずノートに落書きしていたら怒られるかな?」とか、
「先生が説明しているのに消しゴムのカスを投げ合ってたらバレるかな?」とか….
とにかく、教師が「ちょっと?」と声をかけるそのボーダーラインを常に探しているように見えます。
ひょっとすると家庭でも、
「ご飯の前やけど、このお菓子今食べても怒られないかな?」とか、
「宿題あるけど、まだゲームしてても何も言われないかな?」などという風にして、子どもはボーダーラインを探っているかもしれません。
もちろん、教室で(聞くべき時に)教師の言うことを聞いていれば叱られることなんかも最小限に抑えられる訳ですが、そうわかっていても上手く行動できない、自分を自制できないのが子どもたち。授業に集中せず、ガチャガチャと何かを(意識的にも、無意識的にも)始めてしまうことだってあります。
厳しいけれど「叱る基準」が明確な大人
時に児童生徒の中には「厳しい先生」や「厳しい大人」が好きな子どもたちがいます。そして、そういった先生や大人は往々にして、
・叱るポイント(ボーダーライン)がわかりやすい
→ 自由な範囲もわかりやすい
・叱る理由が明確、理不尽ではない
という特徴を持っているような気がします。
私たち大人も同様「キレるポイントがわかりにくい人」にはあまり近づきたくありません。どこにボーダーラインがあるかがわからず、いつどのタイミングで吠えられるかわからないので、不安になります。そして、そんな予測不可能な瞬間をできれば避けたいと思うので、「近づかないようにしよう」と思うのでしょう。
それは児童生徒や子どもにも同じで、あまりにもランダムな指導をする先生や大人は嫌厭される傾向があるように思います。「この人のルールや線引き、わかりにくいな」と思わせてしまうのです。例え、教師や大人のルール設定が多少厳しかったとしても、そこに妥当性や、その人なりのビジョン、何故そのようなルールを設定するのかという熱い想いなどがあれば、児童生徒や子どもは納得することもあります。
大人側に必要な「ビジョン」とそれを伝える能力
オランダの教室にいると「(全体的な)学習の機会を保障するため」に、個別で児童生徒を指導しなければいけない場面はいくつもあります。きっと、日本のどの学校種の教室でも同じだと思います。
例えば、児童生徒が教師が全体に対して説明をしている時に、椅子をガタガタと揺らして騒音を立てる時、他の児童生徒の学習の機会を保障するために指導することがあります。前提として「その教師の指導に耳を傾けるだけの関係性がある」ことが大事ですが、その時に、
・その行為の何が(教師は)問題だと感じているか
・何故、当該生徒の行動を指導するのか
・教師が叶えたい「理想の教室」のビジョンはどんなものなのか
といったことを明確に伝える必要があります。これは一度伝えたからといって生徒全員が十分に理解するものではありませんが、個人的には3ヶ月〜半年くらいかけて、その都度、その都度伝えることで児童生徒の中に浸透していくものだと感じています。
もしこれを怠ると、
「この先生は授業で自分たちにどんな行動を期待しているんだろう?」
「この先生は授業で何を伝えたいんだろう?」
「この先生はどんな熱意を持って授業をしているんだろう?」
ということが児童生徒にいつまで経っても伝わらないままになるので、児童生徒が「この授業中にどういった行動をとればいいか」ということがわからなくなり、ある意味、混乱してしまうように思います。
「この範囲なら自由」という範囲がわかりやすいこと
「自由」と「自由奔放」は異なります。
児童生徒が自分自身を律し、自由を享受するためには、「この範囲」という範囲を示された方が「自分なりの自由」を行使しやすくなります。
一方で、その「自由の範囲」が人によって異なることは往々にしてあります。
「あの人は良いって言うけれど、この人はダメっていう」
行動に対して「人によって考え方が違う」ということは、人間がある程度の柔軟性を手にいれるためには必要な機会です(個人的に、パートナー同士でここが大きくズレていることは子どもにとって混乱だと思いますが)。
混乱を招くのは、「同一人物」の中で「自由の範囲」がコロコロ変わる時です。例えば、同じ人物が、
「授業中にトイレに行っても良いですよ」という日があったり、
「授業中にトイレに行く必要なんてないでしょう。何故、休み時間に行かなかったの?」と叱られた場合、子どもは、
「この人のボーダーラインはどこにあるんだ…」
と混乱します。クラスによって対応が違う(例えば、比較的落ち着いたクラスにはOKを出すが、隣の騒がしいクラスではダメだと言う)、というのは、オランダの先生でもよくありますが、同じ児童生徒を前にして、言ってることやボーダーラインがコロコロ変わると、児童生徒は明らかに混乱します。
その人の中に子育てのビジョンや、教師としての指導ビジョンがあるか
結局、ブレやすい人は、いろいろと(悪いように)発言が変わります。
少し話はずれますが、先日、辻村深月さんの「善良と傲慢」という書籍を読みました。その中で、長年結婚相談所をされている方が、
「どのような人が、結婚していくんですか?」
という質問に対して、
「ビジョンを持っている人です」
と回答していました。つまり、人生に対する自分のビジョンが明確な人は、「こんな人生を歩みたい」「こういったことは避けたい」という線引きが明確にあり、その自分のビジョンが明確だからこそ、「何を求めているか」に真っ直ぐ突き進むことができることで、自分の理想の相手を見つけられるということでした。つまり、明確なビジョン設定が取捨選択を助けるということです。
これは、教室での指導や子育てにも言えることだと感じました。もちろん、100%確実な指導法など存在しませんが、ある程度「自分はこういったビジョンを大切にして教室で指導を行う」とか「こういったビジョンに基づいて子育てをしよう」というものがなく、この情報が溢れる時代にブレまくっていると、その不安定さが行動に、発言に出ることで子ども自身が混乱してしまうことがあるのではないかと思うのです。
オランダの児童生徒も「筋が通った人」が好き?
オランダでも指導力の高い教師は、ブレません。
それは、
・柔軟性がない
・子どもの声を聞かない
・自分が正しいと思っている
というような意味ではありません。
彼ら/彼女らの中には「明確な教師としてのビジョン」があり、そこを譲らないことで、子どもたちの能力や資質を最大限に伸ばすことができると信じている部分があるように感じられます。
「何でもかんでも子どもが言うことに振り回されて、迎合する教師が良い教師ではない。教育者としての専門的な視点やビジョンを失ってはいけない」
それが児童生徒にとって「ちょっと窮屈」であったとしても、そのちょっとした窮屈さが全体にとって利益になる、そして個人の利益に還元される。
例えば、
・集中して学べるような教室になる(やる時はやるという雰囲気になる)
・人の発言にリスペクトを持って話を聞く教室になる
・メリハリがあることで、楽しむ時はしっかり楽しめる
というようなことが教室で享受できるようになると、逆に児童生徒は教師のことが好きになっていくようです。ボーダーラインがわかりやすいことで、自分たちの学習環境が適切に守られるからでしょう。
「子どものため」という言葉はいかようにも解釈できますが、実は児童生徒の方が、ちょっとした厳しさが伴っていたとしても「本当に子どものためになること」を知っている教師を大人を、それを実現するためのボーダーラインを適切にわかりやすく引いてくれるということを好む傾向があるように思います。
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