人間は何千年も変わらなかった。でも今、コペルニクス級大変革を心に起こす時
ロスアンジェルスに移住して、もうすぐ二ヶ月経過。 新しい土地、大きなアメリカ大陸のエネルギーと繋が
り、どんどん、自分の意識、心の領域が、広がって行くのを感じている。
人生の中で、自分の心を成長させ、意識を広げて行くことこそが 私の、魂が体験したいことなので、確実に、
いい感じで進んでいる、と、やっと思えてきた。
最初は、余裕もなく、たった一人での、見慣れぬ地での出発は、ツワモノに見える私でも、心細く、不安いっぱいだった。
でも、そんな中で、目に見えない世界の、お導き、としか 言えないような、新しい出会い、が繋がってきている。
長く私を見守ってきてくれた、遠くにいる友人の、言葉に支えられた。
「絶対、大丈夫。 だって、今まで、失敗したことないからね。君には、ビームのように、これ!っと思うと、実現して行く力がいつもあるから。」
自分のことを、自分が信じれないときに、親友のこの言葉は、まさしく私のハイヤーセルフの言葉のようだった。
つくづく、人は、人に支えられて生きているということも感じる。
そして、今日、一番書きたいことは、 人間の根っこの部分は、何千年も前から、あまり進化していないということ。
だから、変わらない人間の意識を、自分が変わることで 変容させていきたいのだ。
人間は、なかなか変わらない。
エジプト時代の遺跡の落書きに、 「最近の若いもんは、全く、どうしようもない」と 書かれているくらいだ。
その頃の人間の悩みも、許せない両親とか、頭にくる夫、とか、現代人とほとんど変わっていない現実があったようだ。
そこで、私は、こんな風に、自分の人生というタイムラインを使って、変化を起こしながら、自分の意識を変容させていこうとしているのは、ちょっと、大それた言い方だけれど、人類歴史への挑戦だとも言える。
私たちの意識は、認識できる顕在意識と、 できない潜在意識でできている。
そして、集合体としての、潜在意識もあり、これは、特に、日本のように、単一民族で、地形も島国と 孤立しているところは、 その領域がどうしても狭くなる。
ダイナミクスが とても、小さいのだ。
これは、だから、いい悪いということではなく、そういうことになっている、ということ。
ダイナミクスとは、エネルギーの振れ幅であり、許容量の大きさとも言えるだろう。
混沌をも、包括する、エネルギー。
極上のものも、存在する、混沌。 アメリカ大陸には、それを、感じている。
人間は、変わらないというのは、決して、悲観的な話をしているのではなく、私は、希望があるということを書きたい。
人間の悩みは、ほぼ何千年も変わっていない。 ということは、お金持ちも、貧乏人も、病気の人も、健康な人も、 ほぼ、悩みの質は、同じということだ。悩みは、尽きないということでもある。
ということは、逆説的ではあるが、人生を向上させていくポイントは、外側のことではなく、(お金があるとかないとか、健康であるとかないとか、政府がどうしようもないとか、)
自分の心の領域への、対峙の仕方 一択だと私は感じている。
事業を成功させて、100億稼ぐことより、あの、許せなかった母が許せるようになった心の領域の、進化の方が、お粗末な人類史への貢献であると 確信している。
私がロスに移住したのも、その理由で、快適さを求めて、とかではない。
快適なのは、天国のマウイだったわけで、私は、自分の魂の成長と、心の自由をさらに獲得して、自分の生命
を さらに輝かせるために 移動した。
そして、自分を幸せにすることが、人類の平和に直結して貢献しているので、サポートが入る。
変わって来なかった人類にとって、大変革を起こさないといけないのが今の時期。
それは、自分の意識革命。 今までのパターンを打ち破る。
コペルニクス級、の変革である。
(コペルニクスという天文学者は、それまで、天動説、だったのを、地動説を唱えた人。地動説とは、今まで、地球を中心に宇宙が回っていたのは、間違っており、 太陽を中心に、地球も動いている、という、当時の価値観を根こそぎひっくり返した説)
自分の思いを片隅に追いやって、社会の、親の価値観で、生きてきた生き方への革命。
自分の思い通りに、生きる人生。
要するに、自分の中の意識の統合が必要な時。
本当にやりたいこと=顕在意識の領域 をやって来なかった人は、自分への、親への、社会への怒りを 潜在意識に溜め込んでしまってきている。
この、自分の顕在意識と、潜在意識の乖離が、うつや、精神の病気を引き起こす。
この、意識の統合していかないと、日本に未来はない。
先進国の中で、両親を尊敬できない人、引きこもり、ナンバーワンの国、ニッポンなのだ。
統合という言葉が 流行っているけれど、それは、自分の思いと、行動を整えて、毎日の生活を矛盾なくして生
きる、積み重ね、ということだと 思っている。