性悪説と性善説は、次元が違う
”性悪説;人は皆、生まれつき悪の性質をもつ(だから教育やルールが必要)”
”性善説:人は皆、生まれつき善の性質をもつ”
学校の授業でも習ったけど、
初めて知ったのは、創竜伝という小説の中。
そもそも、”中庸”の方が断然好みだったけど、
なぜ今、性悪説と性善説という切り口で語りたくなったのかというと、
ネットで攻撃する集団としてのヒトビトが、
誰かを追いつめたという情報に触れた時、
どうしようもなく、悲しくなる瞬間がある。
データに動かされているだけの、我を失ったニンゲンタチ、
そんな、ただのデータが起こした波に、本気で追い詰められてしまう、今のニンゲンの捉え方。
ただのデータなのに!と悲しくなる。悔しくなる。
そして、ネット上の新たな倫理観やルールが必要、といった議論も出てくる。
その辺りを、まさに性悪説の世界、と感じていたのだと思う。
生まれながらに持つ悪の性質とは、人間が共通してもつ、闇の部分、影の部分。
それは、人類に代々受け継がれてきた、データ(感情・プログラム)だ。
感情は、その名の通り感情だけど、感情というエネルギーのこと。
プログラムは、その名の通りプログラムだけど、簡単に言えば、思い込みや刷り込みのようなもの。
家系によって、多少の違いはあるだろうけど、
人は皆、膨大なデータを引き継いで生まれてくる。
そして無自覚に、データを増やしながら生きていく。
もちろん、減っていくデータもあるけれど、
最初に引き継いだデータが膨大すぎて、
時々気づいて減らすくらいでは、とても追いつかない。
さて、人の本質とは、このデータのこと?
それとも、データではない部分のこと?
データの源泉が何なのか、私はまだ把握していない。
ただ、純粋な自分の性質ではないことはわかる。
データを抜いた状態の自分がどういう存在かは、
データを抜いてみないとわからない。
性悪説は、人が生まれながらにデータを抱えていることに気づいている。
性善説は、データの奥にある自分を捉えようとしている。
どちらも客観的な視点だけど、
みている次元が違う。
データの存在を認識し、(性悪説の視点をもっと引いた感じ)
データを意識的に抜いていき、(デリート、浄化、解放、流す、とか)
データに支配されていない自分を認識する。(性善説が信じたもの)
まずは、データという概念を、徹底的に落とし込むことが必要だ。
悪のように見える部分は、なんのデータかな、と捉える。
悪のような自分が出てきたら、なんのデータかな、と捉える。
自分の前に現れた悪の、元データは自分の中にある、と捉える。
誰も、自分も、悪くない。データがあるだけ。
「誰かが悪いと思ってしまう」
というデータが、多くの人の中にあると思う。
このプログラミングを、できるだけ完全にデリートする。
世界の平和は、自分に還りながら、創っていくもの。