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さよならヤニー。コロナで逝ったオランダの親友へ

オランダの親友、ヤニーが亡くなった。今から1カ月ほど前、マイナス15度まで気温が下がり、雪がまだ残る寒い夜だった。オランダで久しぶりに湖や運河が凍って、みんながスケート靴を用意してワクワクしながら次の朝を待っている、そんな金曜日の夜だった。

ヤニーは単なるご近所さんの範疇を超えた、家族のような友人だった。ここ数年は「多発性硬化症(MS)」という難病に侵され、あと何年一緒に過ごせるだろうか、と頭の隅にはいつもその恐れがあったのだが、結局は新型コロナウイルスが彼女の命をうんと縮めてしまったのだ。享年69歳。ヤニーはコロナ禍を生き延びることができなかった。

初めてヤニーに会った時のことを、私は鮮明に覚えている。それは14年前、私がオランダ中部の都市ユトレヒトから南部のアイントホーフェンに引っ越したばかりの頃だった。ヤニーは近所の誰かから「日本人が引っ越してきたよ」と噂を聞いたらしい。自転車に乗ってやってきて、我が家のドアベルを鳴らした。

「近所に住むヤニーです。あなたと知り合いになりたいと思ってきました。あなた中国にも住んでいたことがあるんでしょう?私、中国語を習っているの。」

オランダ人にしては割と小柄で、さっぱりとした短いブラウンの髪にはグレーの髪もたくさん混ざっていた。メガネの奥に見える青い目はフレンドリーで、知的好奇心に満ちている。

8軒ほど離れた家に住んでいるヤニーは、それからちょくちょくお茶や買い物に誘ってくれた。ヤニーの家は角にあって、その角に沿うように鋭角の部屋がある複雑な形をしている。面白いデザインのインテリアや植物がいっぱいあり、緑の目をした黒猫が歩き回る部屋で、彼女はいつも中国茶や日本茶でもてなしてくれた。それまで私のオランダ人の友人といえば、夫のハームの友人ばかりだったので、ヤニーと友達になれたのはとても嬉しかった。私にとって純粋な意味で「オランダ人の友達第一号」だった。

ヤニーはアイントホーフェンの街を知らない私に、自分のお気に入りスポットをたくさん教えてくれた。ヘネパー公園、有機農場、有機食品のスーパーマーケット、中華食品店……。日本映画など、ちょっとマイナーな外国映画を楽しめる映画館や、ヒップな若者が集まる開発途上のアートサイトなども彼女が初めに連れて行ってくれた。

彼女はベジタリアンで、異文化や芸術が大好きで、社会主義的だった。いつも面白い本や映画やテレビ番組や文化的なイベントにアンテナを張っていて、私の良い情報源でもあった。優しくて、インテリジェントだが、ちょっと複雑で小難しいところもある、オランダの左翼的な人物の代表選手みたいな人だった。

6年前、私の夫が急病で亡くなった後は、私たち親子を献身的に支えてくれた。彼が亡くなってまもなく、長男が8歳の誕生日を迎えたとき、彼女はその誕生会をオーガナイズしてくれた。私や、ほかの家族たちがそれどころではなかったからだ。

誕生会は長男の希望により、隣町の「サーキット」で子供用「F1レース」で祝うことになった。男子8人が何台かの車に分かれて隣町まで行くことになったが、残念なことにヤニーが乗るスペースがなくなってしまい、結局、彼女は隣町まで約40分、自転車を走らせることになった。アクティブな彼女には大したことのない距離だったが、会場に到着したのは、みんなが着いてから20分ほど経ってからのことだった。

暴れん坊の男子8人がサーキット場で大興奮。誕生会ははじめのうち混沌を極めたが、ヤニーが到着した途端、みんなで順番にプレゼントを渡したり、飲み物をオーダーしたり、順番にカーレースを楽しんだり、急にオーガナイズされてやりやすくなったのが印象的だった。そしてパーティが終わると、ヤニーは来た道をまた自転車で帰っていった。パーティは大成功だった。いろんな意味で、忘れがたい誕生会だった。

ヤニーは、私が毎朝1人で子供を学校に送って行くのは大変だと言って、週1回、彼女の夫のハンスと一緒に、それを肩代わりしてくれた時期もあった。当時、8歳と4歳だった子供たち。私は車で送り迎えしていたのだが、ヤニーとハンスは自転車で子供たちを学校に連れて行ってくれた。長男は自分の自転車に乗り、次男はハンスの後部に座って。長男が自転車で学校に行けるようになったのも、ヤニーが指導してくれたおかげだった。

ほかにもヤニーには本当にいろんな場面で世話になった。あるとき長男は私に、「ヤニーってファミリーなの?」と聞いたことさえある。本当にファミリーみたいな友人で、遠くの親戚より頼りになるご近所さんだった。

そんな日々を過ごして1年ほどが経過したころだろうか。ヤニーが自転車で転倒した。幸い軽傷で済んだのだが、それは何度か繰り返され、「これはおかしい」ということになった。医者に診てもらって、何度か検査をしたところ、「MS」という難病にかかっていることが判明した。日本ではあまり聞かない病気だが、神経組織が損傷し、脳からがの情報が身体にうまく伝わらなくなり、身体の感覚や運動能力に支障をきたすというもの。欧米で20~30代の若い女性に多く、一般的には何十年もかかってゆっくり病状が進行する。しかしヤニーはすでに60代だったし、病気の進行が異様に速く、MSの中でも特殊なケースだった。

8カ月ぐらいの短い間に彼女の症状はどんどん悪化した。あのアクティブな人が、まずは自転車に乗れなくなり、旅行にも行けなくなり、料理もできなくなり、そして歩けなくなった。彼女が人生の楽しみを1つ1つ諦めなければならない過程を見るのは悲しかった。彼女は登山靴を売り、包丁を売り、スーツケースを手放した。そして代わりに、彼女の家には車椅子や電動椅子、歩行器、電動ベッドなど、彼女の自由を確保するための器具が増えていった。

「今度は私がヤニーを助ける番だ」と私は思ったが、実際にシングルマザーの私にできることは限られていた。それでも車椅子生活の初期の頃は、時々ヤニーの車椅子を車に載せて、街でランチやショッピングを楽しむこともできた。車椅子を押しながら一緒にショッピングをしたときは、ヤニーがあまりにも大量のサプリメントを買うので、ショックを受けた覚えもある。「身体にいい」とされるものは、みんな試しているみたいだった。

医者には見放されていた。血液をプラズマで浄化したり、高価な新薬を試したり、いろいろやってみても効果がなかったのだ。ヤニーは知り合いの伝手で知った「何でも治すドクター」のところに通った。現金のみの支払いで、看板やウェブページも持っていないドクターだったが、みんなが匙を投げる中で彼だけが「治りますよ!」と言ってくれる人だったのだ。

私も1度ヤニーに付き添ってこのドクターの診療を見たことがあるが、普段は動かない彼女の手足が、ドクターが神経を刺激する度にピクッと動くのは本当に奇跡のようで、「このまま刺激を続ければもしかしたら……」と希望を抱かせるものがあった。

しかし病状が改善することはなく、ここ数年、彼女は家でテレビを見たり、ポッドキャストを聞いたり、訪問者とコーヒーを飲んだりしながら、1日のほとんどを電動イスの上で過ごしていた。左手も動かなくなり、トイレに行くのも、歯を磨くのも、食事をするのも、命がけみたいに大変なことになっていた。ハンスが献身的に介護していたが、彼も目がほとんど見えなくなってきており、誰の目にも限界が見え始めていた。

ヤニーもハンスも、本来は介護施設に入らなければ難しい状況になっていたのだ。しかし、ヤニーはかたくなに自宅に居続けることにこだわった。介護施設に入ることは、彼女にとっては刑務所に入るような気分だったのだ(実際、彼女は何度か病院への入退院を繰り返しており、退院する度に短期間だけ介護施設に入ったことがあるのだが、そのときの経験が苦すぎたらしい)。

ヤニーには1人娘がいるが、彼女は遠くに住んでいて頻繁に来るのは難しい。結局、市役所や保健所などとの話し合いを経て、彼らの家に毎日、複数の介護士が交代で来て、2人の世話をすることになった。それが始まったのが今年初頭。ヤニーは介護士に満足していたし、私もこの生活があと数年は続いてくれるように願っていた。しかし、こうして介護士が入れ替わり立ち代わり訪問する状況があだとなり、ヤニーはとうとうコロナに感染してしまった。

私は心配で毎日のようにメッセージを送ったが、はじめのうちヤニーの症状はほとんどなく、彼女は楽観的だった。

「少しだけ息苦しいけど、何とか乗り切れそうな気がするわ」

しかし、MSでもともと肺の機能が弱まっている人をコロナは容赦しなかった。それからまもなくヤニーは自宅で酸素を注入することになった。私は野菜ジュースをつくってヤニーの家のドアの前にそれを置き、介護の人にそれを取りに来てもらった。私は窓辺のいつもの電動椅子に座っているヤニーに向かって、窓越しに手を振った。そしてヤニーが意外にも元気そうだったので、「Netflixの『愛の不時着』がおススメよ!」などと、のん気なメッセージを送ったものだ。ヤニーは笑いながら手を振った。

それから数日、ヤニーは自宅で酸素を注入しながら過ごしていたが、とうとう病院に運ばれることになった。

「私は今、救急車で運ばれます。血中酸素が低すぎて、血液の状態が良くないの」

私は次の日にヤニーに持って行こうと思っていた花束を見ながら泣いた。それでもまだ希望は残っていた。

「頑張ってヤニー!あなたのために祈っています。たくさん休んで、ちゃんと介護してもらえば、きっと帰ってこられる」

それから私たちは毎日メッセージを交換した。ヤニーは「息苦しい」と訴えた。「病院のスタッフは優しいけど、現実的だ」とも言っていた。もうヤニーの体力では「IC」に入ることもできないと言われたのだ。酸素の注入量をどんどん上げているようだったが、これ以上は上げられないところまできていた。

ヤニーがメッセージを打つのにすごく労力を使っているのが分かったので、私が「絵文字だけでいいよ」というと、それからは絵文字しか来なくなった。1日のうちに何度かメッセージを打って返事がないと、途端に胸がざわざわしたが、ヤニーからハートの絵文字がくるたびに胸をなでおろした。絵文字がこんなに重い意味を持つとは……!

2月12日の早朝、ヤニーと私の家に面した広場の写真を撮ってヤニーに送った。広場に雪が残って、上り始めた太陽がそれを青白く浮き立たせる風景だった。ヤニーがそれを見たかどうかは分からない。絵文字が返って来ることはなく、その日の夜、ヤニーは静かに息を引き取った。

葬式は近所の教会で行われた。教会といっても、セレモニーホールとしてリノベーションされて、宗教色のないものだ。高い天井にステンドグラスからの光が差し込む素敵なホールだった。前方に棺が置かれ、その周りをたくさんの花束が囲んでいる。そして前方の大きなスクリーンには、ハンチング帽をかぶり、派手な色のメガネをかけたヒッピー風の女性が、悪戯っぽく微笑んでいる。私が知らない、若き日のヤニーだった。

コロナ禍で人数が制限されるなか、会場には家族や親しい友人が50人ほど集まっていた。若い時からの友人、家族、そして私が前方のマイクで順番にスピーチをした。葬式のスピーチでは、みんなが知らなかった故人の一面を見るものだ。私は上記に述べたようなヤニーとの友情を語った。みんなが知らなかったヤニーかもしれない。

ヤニーが亡くなって、1カ月が経過した。まだヤニーがこの世にいないという考えに慣れない。スーパーなどで良い有機野菜を見ると、「これはヤニーの野菜ジュースにいいな」と考え、もうそれができないことに気付くと、途端に大きな寂しさに襲われる。ヤニーは私にとって大きな心の支えだったなあ、と改めて思う。オランダに来て、ヤニーのような友人に出会えたことを感謝している。時間が経てば、この悲しみの鋭角は丸まっていくだろうが、私はヤニーのことを一生忘れない。


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