
家事にまみれる日々も悪くない
と、最近思っている。
というのは、
「お帰りなさい」で、帰ってくる息子を迎えてあげられる日々を最近、大事にしているからだ。
以前は息子を午後6時にお迎え、などざらだった共働き家族だったが、
いまは、午後4時以降は対面仕事を入れないようしていたりする。
「お帰りなさい!」と笑顔で子を迎える。
この小さな一言が、幼少期のわたしには有った。それが、今の私の性格を構築するのにどれだけ力があったか。今でも、母の「なおちゃん、おかえり〜」が、耳の奥に記憶されている。
主人と私は真逆の家庭環境で生まれ育った。
大都会「東京」生まれの私と、ど田舎(失礼!)の主人。
8人大家族と猫4匹に囲まれて育った私と、一人っ子の主人。
私は家族に囲まれていた分、周りがいろんな話を、思いおもいにするので、ノイズがつねにつきまとう生活が日常だった。実家は私と弟以外の6人全員B型だったので、好きな話を好きな時に好きなだけする習性があったのだ。(B型のひとゴメンね:)ハート)
そのためか、大人になってからは一人の貴重さがありがたくて
一人の時間が取れないと、自律神経が整わないような体感がある。
一方で主人は一人時間をエンジョイできるタイプではなく、一人ご飯はもちろん、一人旅、一人映画なんて、行ったことがないと言う。
私も主人も、心身ともに健康で(今の所)人様に最低限の迷惑だけをかけつつも、それなりに人に喜んでいただく仕事を見つけて生活を送っているという点では、共通しているので、「お帰りなさい」があるか無いかが直接的に精神を育む上で必要なのかそうで無いかは、確かでは無い。
けれども、つまるところ、自己満足なのだと思う。
全ての物事は、自己満足が人に喜ばれた時にいい結果を産むと思うので、
まんざら悪いことでは無いんだろう。
兎にも角にも、みるみる成長する息子は小学校2年生。
赤ちゃんの頃、母と息子の世界が100%だった。
そこに「友達との世界」が入り込んできたのは保育園年長さんから一年生の頃。
今はきっと、母との世界70%、友との世界30%くらいかな。
来年になれば、フィフティフィフティになるだろう。
だから少し、
「お帰りなさい!」を届けられる自分であろうと努力してみている。
ただ、お帰りなさいで迎えてあげられるかどうかは、愛の量ではないとも思う。
平たく言えば、多少のゆとりの量なんじゃないかな。
出来るだけ足るを知って、私が仕事を追い掛けすぎないことや、旦那さんが仕事好きで、困らないくらいの生活が担保されていることが基盤だとも感じている。
どちらがいい悪いということではないんだよね。
器用に見えて不器用な私は、あまりいっぱいいっぱいにならないように、ゆとりを保てるように生きていきたいと思う。
皆さんへもエアお帰りなさいを。