ビッグピクチャー(全体像)は細部に新たな意味を与える
「風の時代」の基本的なポイントは、時間的にも/空間的にも/精神的にも、視野を広く、全体像を総合的に見渡すこと。
これは”木を見て森を見ず”の状態にならないようにする、ということですが、「こだわりを捨てろ」とか「細かいことは気にするな」という意味ではありません。
そうではなく、目の前にある利害や物事のディテールを、全体像とのつながり、文脈の中で見定めるということ。
たとえば小説家が一冊の本を書き上げるとき、一文一文が大きな物語の起承転結の中で重要な役割を果たします。
伏線を散りばめ、世界観を描写し、人物を浮き立たせる。
どれだけ美しい一文が書けたとしても、それが物語全体の中で適切な位置に置かれ、物語を前に進めるための交換不可能な役割を果たしていなければ、意味がありません。
その一文が原稿から削除されるのは、文章として出来が悪いからではなく、
文脈や物語のスジにうまくつながっていないからです。
(文章の出来が悪いだけなら「修正」されます)
小説を構成するすべての文、すべての文字は、そうして文脈・物語といった全体像と分かちがたく繋がり、お話を支え、構成する「部分」になる。
それと同時に、始まりから終わりまでのすべてのストーリーをエッセンスとして内包することにもなる。
身体のあらゆる細胞に、身体全体の設計図であるDNAが宿っているように。
部分は全体を含み、全体は部分を含む。
さて、この《部分ー全体》の関係性で見たときに、牡羊座と、その真裏の星座である天秤座との関係はおもしろくなってきます。
牡羊座は、一言で言えば「自分自身である!」というテーマをもつ精神。
シンプルですが、このテーマに沿っている限り、人生で道に迷うことはありません。
他人の意見に惑わされず「自分として生きる」人生には、チャレンジや困難や戦いはあっても、迷いや悩みはないのです。
牡羊座的精神が個としての自分を大切にするとき、その真裏で天秤座的精神は「自分自身を多層化する」ことに取り組みます。
少し説明してみましょう。
「わたし」という人は一貫性のある、単一の存在でしょうか?
例えば、脳内会議をしているときに自分の中に複数の人格(めいたもの)を作り出すことは誰でもあたりまえにやっていることです。
「まあまあ、今日くらい休んでもいいんじゃない?」
「いやいや、今日仕事を片付けておかないと、結局週末休めなくなるよ」
「おなかすいた!とにかく甘いものたべたい!」
「まったく昔から同じ失敗ばかり繰り返して成長しないやつだな」
そしてこれらのミニ人格を包みこむようにして、もっと大きな全体像としての「意志決定するわたし」がいる。
天秤座はこうした「わたし」という意識のマップを作り出そうとする星座です。
ひとつひとつのミニ人格をよく見てみると、それはさまざまな出自を持っていることがわかります。
小さいころに受けてきた教育、友人の口ぐせを真似たもの、本を読んで得た知識、社会の空気感や常識、トレンド。
ようするにもともと他者からやってきたものを、さまざまなレベルで自己化したものなのです。
「わたし」の中には、他者や、文化や、時代や、社会の文脈との「つながり」がある。遍歴が残っている。
天秤座的精神にとって、自己とはこうした文脈から決して切り離されないものです。
だからこそ、「変わりたい」ときには、より広い視野をもった「わたし」の意志決定にしたがって、小説家が物語のスジに合わない文章を削除していくように、ミニ人格を整理整頓します。
その結果、「付き合う友人」や「お金の稼ぎ方」や「社会的イメージ」が更新されるのです。
さて、牡羊座のいう「わたし」と天秤座のいう「わたし」は、どちらが全体で、どちらが部分でしょうか。
社会という文脈の中にわたしという個が置かれていると考えるなら、天秤座が全体像で、牡羊座が部分です。
反対に、社会とのつながりを包みこんで意志決定している「わたし」と考えるなら、牡羊座が全体像で、天秤座が部分。
天秤座は、牡羊座の「自己」の内部を微細に探求することは、同時に「自己」の外部のマクロの階層を発見していくことでもあるのです。
「わたしらしい人生を生きる」ということは、複雑で、多層的で、社会的・文化的文脈とつながりつつも交換不可能な個、として生きるということ。
土の時代的な固定された自己イメージでは、「わたしらしい人生=個人主義、自己責任論、努力主義」に行きがちでした。
しかし、風の時代的自己イメージは、もっと複雑で、もっと流動的です。
「わたし」とは、部分と全体、個と社会の、流動するプロセスそのものである。
自己イメージがそんなふうに変容すると、「責任」の意味や「所有」の意味もかなりニュアンスが違ってくるはずです。
……って、おお~っと。
メルマガだから、シンプルな話を書こうとしていたのに、なんだか小難しい文章になってしまいました。
ディテールを視ることと、全体像を視ることは、実はつながっているということを言いたかったのです。
そしてこれらの小難しい考察が、私自身にどんな「やる気」を巻き起こしているのかというと、もっともっと堂々と、社会に打って出たいという、やる気です。
恐れているとき、わたしはわたしでいられなくなる。
「わたしらしく生きるということは、ある種の無責任なのではないか」という恐れも、わたしにとってそのひとつでした。
自己イメージの変容とともに、その枷が外れて、恐れを知らない情熱が戻ってきているのを感じています。
成功しようが失敗しようが、どうせ、心には逆らえません。やりたいことは忘れられない。
だったら、恐れ、迷い、悩み、繊細でいつづけるよりも、長期計画のチャレンジに、タフに挑みつづける豪快さを育てていきたいなと、そう思うわけです。
Crossing 岡崎直子