新宿L/R ~フェイクの中で(7)
しのぶは目をつぶり、写真のフレームを頭に思い描いた。四角いフレーム。その中に、曇り空の、冷たい空気が流れる草原が広がる。声がして、目をあけると隣に知らない女の人がいた。しのぶの顔を覗き込み、大丈夫?と言っている。その人はカウンターの店員を呼んでエビアンをしのぶに注文した。しのぶはああ、どうも、すいませんと言ってそれを受け取り、その人のことを見た。
「よく来るんですか?」
しのぶは話しかけた。前ほどじゃないけどね、家が近いから。1,2時間なら大丈夫。今日はウタイだから、特別にがんばって来た。旦那が付き添いで」
しゃがれた声がぷっくりした唇からもれ出るように聞こえてくる。言葉のひとつひとつが神秘的な音階をともなってしのぶの心の芯にダイレクトに響いてくる。しゃがれた声の女の人は話し続けている。旦那のこと、ウタイのこと、新宿Liquid Roomのこと。しのぶにはその内容のすべてが楽しそうなこととは限らないように思えた。どれも自分の何かを挺して進んでいくことのように思える。そういうことをなぜこの人は語るのだろう。なぜ、そんなに楽しくないことを言うのだろう。もうすぐウタイはDJブースに登場するだろう。客の歓声が高くなっている。
ああ、もうすぐね、その人は言って、メインフロアのほうをちらりと見た。しのぶはその顔が満面の笑みに満たされているのを見た。勇敢な笑みだった。何はなくとも、とにかく進むという意志のようなものをしのぶは一瞬で理解した。生きるには、一名を成していることが必要なのではない。一世を掛ける価値のあるものを見出していることが必要なのだ、というイメージが、しのぶの頭の中を超特急で駆けていった。言葉にする時間ももどかしかった。いわれのない快感が、しのぶの背中を走りぬけた。
フロアの歓声ははち切れるように高くなり、しのぶは気づいた。どうして、この人が、全てを知る神のように賢く見えるのか。その人はただ笑っている。まるで苦のない自然な感じで、口元だけで、笑っている。苦も楽もない。あるのはただ感情の波と、それに凌駕され続ける体だけ。しのぶはエビアンの礼をもう一度言い、イスから降りた。隆文を探さなくては。あの顔を見つけ出して、もう一度、言わなくては。行こう、楽しいことがあるところへ。
フロアへ向かう前、しのぶはカウンターの中で音楽に合わせて肩を揺らす和雪に、油性のペンある?とたずねた。ポラロイドカメラでとった写真にメッセージ書きたいの。本当はポラロイドカメラなど持っていない。もちろん写真もない。
隆文が好きだといつか言っていた、廊下の落書きを今日書こうと、しのぶは思っている。隆文がその落書きをいつまでも覚えていてくれることを願って。そして隆文がいつかしのぶのことを忘れることを願って。