新宿L/R ~リキッドルーム、壁、落書き(8)
帰り道、数時間前に汗だくになりながら並んだ非常階段の壁にもたれて、自分のキャミソールの肩を抱きながら、落書きってしたことある?と彼女は俺に聞いた。いやない、と答えると、今しようよ、ほら、油性のサインペンあるんだよ、と差し出してきた。でも何を書けばいいかわからないと躊躇する俺を尻目に、彼女はサラサラと壁に大きな字で書き始めた。ベージュの壁はペンキをべた塗りして落書きを消した部分があり、ちょうどスペースが広くあいていた。なにか猥雑きわまりない文句でもあったのかと勘ぐってしまうような消し方だった。その周りにはメジャー、マイナー、国内外を問わず音楽雑誌をにぎわせているアーティストのライブの感想がさまざまに書かれている。一言のものや、数行にわたる長いものまである。日本語に混じって英語のものや、中国語のものもある。混沌とした感情の群れが歌舞伎町の街並みと重なり合い、ビルとビルのすきまから次々とあふれる人々が俺に話しかけてくるようだった。街の活気と喧騒をすぐ近くに感じ、俺は寝不足で踊り疲れてくたくただったが、へそのあたりが熱を帯び始め、活力が湧いてくる感覚が起こった。これは何なんだろう、このわけのわからない高ぶった気持ちは?根拠のない自信が湧き、これから何時間でも起きていられるような気がしてきた。彼女が大きく書いた横に、俺も落書きを試みた。心の奥から湧きいでる声を耳を澄まして聞いてみたつもりだったが、何も聞こえてこなかったけれども。役目を終えたとばかりに踊り場へ降りてしまった彼女がこちらを見ている。早く行こうよお、お腹すいたよお、と叫んでいる。俺は一言目を壁に書き込んだ。なるべく汚くなるように、走り書きになるように。
二の句をつぐ前に踊り場に目をやると彼女はもういない。そんなに腹へってんのかよ、と思った次に、彼女は放浪の旅に出て俺の前から姿を消したのだと確信した。ついにこのときが来たのだと、くやしく思うと同時にほっと安堵した。これでもう彼女がいなくなったらと心配することもない。傷の深さは今はよくわからないけど、あとは自分が立ち直っていけばいいだけだ。彼女がどうしても戻らないものであるなら、妙な開き直りと失ったものの大きさを見ないようにする努力が必要だろうと冷静に思った。壁に目をやって、彼女の落書きは何と書いてあったか、もう一度確認してみた。今このときを壁にピンアップし、今が過去になっていくのを拒否するための場所。ここへくれば彼女が存在した証明をいつでも目にすることができる。
俺は短時間のあいだにぐるぐると頭をめぐらせたせいで足元をふらつかせながら、残りの落書きを書き終えた。階段を降り、次の踊り場を曲がるところだ。