新宿L/R ~和雪の場合(1)
まあるいかたちのグラスが店には5脚ある。和雪が自ら購入してきたもので、手入れももちろん念入りにするのだ。食洗機には入れずに手で洗い、曇りの無くなるまでいつまででも布で拭く。力の加減は手が憶えていて、曇りが消えていくプロセスが、まるで体の中の毒素が抜けていくような、浄化作用であるように感じるのだ。開店40分前の、ちょうど開店後の狂った騒ぎとバランスをとるように静まりかえった時間に、和雪はまあるいグラスを磨き始めるのだ。愛情をこめればおのずと物は輝き出すものだと和雪は十分わかっている。店を仕切るというときはそれがわかっていないと破綻する。もしくはどうしようもなくくだらない店をたれ流すように世に出すまでである。
今日はDJウタイが1年ぶりに新宿L/Rに帰ってくる。最近のウタイといえば昨年リリースのMIX CDが国内で小ヒットしたことをきっかけにヨーロッパに進出、旧東ドイツ圏を中心にハンガリー、チェコ、ポーランドなどを回って経験と自信を得て乗りに乗っているという次第だ。だから今夜のパーティは客の入りにも、プレイにも大いに期待できる重要なものだ。和雪は考えられるかぎりの友達に連絡を入れた。今日になって隆文から連絡が来た。彼女がウタイのファンだからゲストチケット取れないかということだった。残念ながら当日ではゲストは取れないと言ったら、まったく見事に落胆していたが、絶対に来て欲しいと熱心に説得したらどういうわけか機嫌を直してくれたのでよかった。階段に並んでもらうしかないが、仕方がない。
家に置いてきぼりにしてある彼女にも、携帯に連絡を入れておいた。今日は非番で家にいるはずだ。和雪が部屋を出るときには寝坊してまだ寝ていた。一緒に住んでいるはずなのに、最近きちんと会話した覚えがない。仕事で家を空ける時間がお互いに違うから、彼女が働きに出ている時間に和雪は寝ていて、彼女が帰宅して寝ている時間にはいない。こんなことなら、別々に住んで会える時間を作るほうがよほどカップルらしいふるまいのように和雪には思える。彼女は仕事に出かける前、つまり午前9時ごろだが、和雪のためにメモを残していくことがときどきある。パンは冷凍庫にしまってあるだとか、今日は帰りに誰々と食事するだとかいうことだ。彼女なりの愛情のかけ方なのだろうと和雪は思った。それにどうこたえていくか、和雪はいつも困ってしまうのだが、和雪にできることは限られていた。