物語「縫い物」を投稿しました
物語「縫い物」です。短いです。よかったら読んでください。
「縫い物」
ときどき、服の背中側に紙を「縫いつけて」出かけていた。
見た人は「なんだこいつ」と思うだろう。
僕は、そう思われることが好きなんだ。
なんだこいつ、と注目されることが好きなんだ。
その紙にはサインペンで、
「この人物は馬鹿です」
と書いてある。
もちろん自分で書いた。
だって、僕にはそれ以外の文章が思いつかないんだ。
よく考えてみたら僕はほんとうに馬鹿かもしれないし、仮にそうでなくても書いた紙を縫っておいてまったく心は傷つかない。
最初、ガムテープでとめようかなと思った。
しかし、
いや待てよ、これ剥がれやすいんじゃない?
しかも剥がれたら服ベタつくよね?
などと考えて僕は上着に、紙を、糸を使って縫いつけることにした。
裁縫はわりと好きだ。
力強く縫う。とても楽しいことだ。
紙を縫いつけるのはある程度工夫が必要だったが、なんとかうまくできるようになった。
そうして出かけると、たしかに皆、僕を見る。
そりゃね、目立つものね。
しかしながら、誰も話しかけてこない。
「よっ、おまえ馬鹿なんだって?」
こんな感じでガラの悪いやつらに話しかけてきてほしい、と思った。
そしたら、
「そうです、僕、馬鹿でーす」
と言ってやりたいのに。
あいつら、殴ってくるかもしれない。
でも心のはじっこで、「こいつ、怖い」と思うかもしれない。
ほんの少しの恐怖を、あいつらに味あわせてやれるかもしれない。
その、あいつらの「ほんの少しの心のさざなみ」の中に僕はいる。
あいつらの心のはじっこに、僕は入り込み、そして縫い針をもって待ち構えているのだ。
そして、
「ボタン、とれてますよ?縫ってあげますよ」
と、僕はあいつらの心の中でつぶやいてやろう。
しかし、ガラの悪いやつらもたしかに見かけたが、僕が振り向いてやつらに微笑みかけると、にやにやと笑っていたそのいやらしい目から光がすっと消えて、そして視線を外したのだ。
臆病ものめ。
本当に誰にも、僕はまったく話しかけられなかった。
あまりにも誰にも話しかけられないので、つまらなくなり僕はそろそろこんなことやめようかなと思い始めた。
その日。
駅の通路だ。
だが、行き来する人はそれほどいない。
夕方の五時。
暖かい日で、僕はジャケットを着ていたが暑くて脱ぎたくなっていた。
だが、ジャケットに「この人物は馬鹿です」の紙を縫いつけていたので脱ぐわけにはいかなかった。
脱いだあとのシャツにも縫っておくべきだったかなあ。
そんなことをぼんやり思っていると、とても品の良いこげ茶色のスーツを着たグレイヘアの男性が、
「君、ねえ君」
と、僕に話しかけてきた。
「君、これは自分で縫ったのかね?」
低くやわらかな声で、ゆっくりと落ち着いた口調だった。
僕は胸が高なった。
やっと夢がかなったのだ。
「はい」
僕は答えた。
男性は、六十歳くらいだろうか。
がっしりとした体で、黒い色の、歴史のありそうな鞄を持っていた。艶があり美しい鞄だった。
男性は、僕の目から視線をはずさなかった。
彼は、心のはじっこにいる僕を、縫い針を持った僕を、見ている。
ふと、不思議な気持ちになった。
僕が彼の心のはじっこに、しかも縫い針を持って存在していることは、彼に失礼なのではないかと思ったのだ。
不思議だ。
今までそんな気持ちになったことはない。
男性は首をふって言った。
「こういうことは良くない。この紙の内容のことだよ。自分を馬鹿にするのは本当に良くないことだ。目立ちたいだけなら、文章を変えなさい」
そして、グレイヘアの男性は自分の鞄からサインペンを取り出した。
「私が、文章を書き換えてよいか?」
僕は少し戸惑った。
この人はかなり奇妙なことを言っている、と思った。
でも、まあ、別に良いかなと思った。どう考えても、そもそも奇妙なのは僕だ。
「どうぞ」
と、僕は言った。
背中に体重がかかる。そして、彼がサインペンを動かすと、思ったよりも強く圧迫感を感じた。
胃が押し出される感じがした。
体の中から痛みが走った。
骨に響いているのか?背骨を押しているのか?
それは本当に、紙に書いているのか?
「終わったよ」
と、後ろから声がした。
「はあ」
と、僕は答える。
「では」
と、グレイヘアの男性は軽く会釈をするとあっという間に去っていった。
僕は首を傾けたが、もちろん自分の背中は見えない。
しかしなぜなのか、妙に体が軽くなった気がした。
そこに今まで当然のように存在したかたまりのようなものが、ふっと消えた気がした。
彼は、「この人物は馬鹿です」をなんて書き換えたのだろうか。
「馬鹿じゃないです」にした?
それとも鹿という文字を消して、「この人物は馬です」にしてみたりして。
自分で思いついたその冗談に、僕は笑ってしまった。
「この人物は馬です」
なかなかのユーモアだ。
そうだろう?
家に戻ってジャケットを脱ぐと、そこには紙はなかった。
「え?」
と思わず声が出た。
落とした?いや、そんなことあるはずはない。
かなり強く縫いつけていたはずだ。
もしかしてあの男性が外した?
いや、あのとき紙を外した感覚はなかったよな。
でもないってことは、やはり外したのか?
そういえば、あのとき体が軽くなった。
あの男性、なにかを書いてそのあと紙を素早く外したのか?
そして、同様に素早く自分の鞄の中に入れて持ち去った。
ジャケットには紙どころか、縫いつけていた糸さえ残っていない。
ほんの一ミリさえ、糸が見つからない。
書いていたよな?
あの男性、間違いなく何か書いてたよな?
骨まで響くようなちからで。
彼は何を書いたのだろうな。
そして、彼はジャケットから紙を外した。
ついでに、もしかすると骨や胃からも何かを外した?
彼は僕に、何かを書いて、何かを外した。
何を?
いくら考えてもわからないので、僕はついに考えるのをやめた。
紙はない。
「この人物は馬鹿です」は、なくなった。
僕は馬鹿じゃなくなった。
では、今の僕はなんなのだろう。
そうだな、やはり「馬」にしておこうかな。
僕は、先ほど頭に浮かんだ冗談を思い出す。
馬。
うむ、僕は良いユーモアを持っている。
この人物は馬です。
悪くないかもしれない。
「この人物は馬です」
僕は声に出して言ってみた。
すると、空っぽになった背中に、「馬」の文字が書き込まれた気がした。
「よしよし、君はこれからは、馬だ」
と、どこからかグレイヘアの男性の声が聞こえた。
しまった、もっと深く考えて決めればよかった。
しかし、「馬」は深く、深く、僕の背骨や胃にも縫い付けられてしまった。
おい、
おいおい、
ちょっと待て。
しかし、返ってくる声はない。
ちょっと待てよ。
やはり返ってくる声はない。
鏡を見ると、そこにはしょぼくれたたてがみを持つ馬が映っていた。
仕方ない、僕はこれから馬だ。
どうしてくれるんだ。
*****終わり*****
読んでくださってありがとうございました。
こんな話を書いておきながらなんですが、私は縫い物が得意ではありません…まず玉結びがうまくできない。(まだ縫ってもいない段階)
さて、作成した今回のカバー絵です。布っぽく…。
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