みんな変わってる
先日、お世話になっている某料理雑誌の編集長がテレビ番組に出た。食いしん坊と名乗る氏は、冷やし中華の麺の味を確かめるため、あえて辛子をつけずに一口。
そのシーンに、「いちいちそんなことを考えながら食べるのか」と驚かれた人がいて、そうか、それはやっぱり当たり前ではなかったのかと痛感した。
自分も含め、私の周りは、そんなどうでもいいことを真剣に考えている人だらけだ。
ある同業者は、とんかつの最初の一口は左から三切れ目が最良との結論を導き出した。
ある焼肉好きは、網の上の肉を一秒も同じ場所に置かない。絶えず動かし、肉に当たる網の温度を一定に保つのだと言う。「肉は焼いても火傷させない。肉自身が焼かれたことにも気づかないうちに火を通す」なんていう、両親が聞いたら「大丈夫かお前は」と心配されそうなせりふも、もちろん大真面目だ。
私はといえば、納豆蕎麦(そば)の食べ方が変、と指摘されたことがある。
その時は、冷やし蕎麦にかつお節、ネギ、納豆、のり、真ん中に黄身のトッピングであった。おつゆは自分でかけるのだが、まずはかけずに真っさらな蕎麦だけを一口。その後、おつゆを少しかけて蕎麦を一口。
次に「蕎麦×かつお節」「蕎麦×ネギ」「蕎麦×のり」「蕎麦×納豆」と、一対一の相性をじわっと楽しむ。
まだ、黄身は崩さない。さらに「蕎麦×ネギ×かつお節」「蕎麦×納豆×のり」「蕎麦×納豆×ネギ」。三角関係にもつれこませ、複雑化したゆえに響き合う味を確認。
この後に黄身だ。しかも崩したら一気に勝負。黄身×3桁のかけ算を筋トレのように繰り返したところで、ようやく全体を混ぜることになる。
うわぁ面倒くさ。そうつぶやいた同行者は、いきなり全部をかき混ぜて、3分ほどで食べ終わっていた。
食べるという行為は、とてもプライベートなことだ。行儀作法は別として、「人」そのものがおもむろに表れる。「自分はいたって普通」と言い張る人は多いが、いやいや、私から見ればみんな変わっている。
私は「みんなの町鮨(まちずし)」というウェブ連載で、食の世界の人だけでなく、美容師や会社員にも取材している。
毎日レストランに通ったりしないという意味では、普通の人々。でもご一緒してみれば「かっぱ巻はおつまみです」と言って握りの間に挟むマイルールがあったり、注文をタネの種類でなく「コリコリください」と食感で指定したり。自分が普通にしていることは案外、みんなの普通ではないことに、あまり気づいていない。
イタリアのレストランを取材した時、日本人コックには個性がないという声をよく聞いた。しかし私は思うのだ。個性のない人間なんていないし、出そうとしなくても、勝手に漏れ出てしまうものではないだろうか。
そして書き手としての私は、そんな「自分なんか取材したって、いたって普通です」と言う対象者ほど好んで書きたがる。
特別な人間じゃない、と思い込んでいる人からどうしたって漏れ出す個性は本人の想像を超えて魅力にあふれ、そしてそれは本人以外にしかわからない。
2019.7.6
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