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【Opera/Cinema】METライブビューイング『サンドリヨン』

 今シーズンのMETライブビューイングの最後を飾るのは、シャルル・ペローの童話「シンデレラ」をオペラ化したマスネの『サンドリヨン』だ。ディズニー・アニメと強く結びつき世界中の女の子の幼児体験に決定的な影響を与えている「シンデレラ」は、ある意味であまりにも陳腐な、現実味も現代性もないおとぎ話ともいえる。だから2018年の今このオペラを上演するのは、色々な意味で結構難しいのではないかと思う。それをもののみごとに乗り越えてみせたロラン・ペリーという人は、やはり稀有な才能の持ち主である。ペリーはこのオペラが陳腐なおとぎ話ではない、今に生きる私たちの心を捉える素晴らしい「ドラマ」であることを教えてくれた。しかもその舞台はとびきりお洒落、目にも美しいのだからこたえられない。

 ペリーは、自分が幼い頃に読んだ「シンデレラ」の本を全体の装置や美術に活かした。彼の家のあったというその本には、黒・白・赤の3色が使われていて、だから今回の装置・美術・衣裳(ちなみにペリーは常に衣裳も自分で手がけている)もこの3色しか使っていない。特に第2幕では、サンドリヨン(シンデレラ)の継母と姉2人をはじめ、王子の婚約者候補の娘たち全員が真っ赤なドレス(だが全員デザインも色味も違う!)を着ている中、妖精の力で変身したサンドリヨンだけがグレーの裾の真っ白いドレスで現れる。このシーンは本当に筆舌に尽くしがたい美しさだった。

 活字が並んだ本のページを背景にした装置はシンプルだけれどもエレガント。その装置の中を動き回る人々は、まさに「童話の挿絵」よろしくどこか滑稽でカリカチュアライズされているのだけれど、舞台全体を観るとそこは常にイキイキとして人間味にあふれている。考えてみれば、私たちが本を読むとき、それがあからさまに「作りもの」めいていたら幻滅して読み続けるのがイヤになってしまう。本の中の人が「血の通った人間」だと感じるからこそ、私たちは「お話」に夢中になるのだ。ペリーは、合唱からバレエ・ダンサー、助演にいたるまで、ひとりひとりを血の通った人としてそこに「生かす」。そう、妖精がサンドリヨンに魔法をかけたように。

 そんな中、サンドリヨンとシャルマン王子は、最初から最後まで「生身の人間」の苦悩を表現し続ける。ふたりは身分こそ違えど、抱えている苦悩は同じだ。共に母を失い、運命の中で真実の愛に見放された孤独な子どもたち。だからふたりは出会った瞬間に恋に落ちる。そして互いに離れ離れになった後も、相手を探さずにはいられない。ふたりの苦悩が痛いほど伝わってきたのが、第3幕第2場の二重唱だ。マスネがなぜシャルマン王子をズボン役にしたのか、その理由がここで一気に腑に落ちる。特に今回、サンドリヨンのジョイス・ディドナートも王子のアリス・クートも共にメゾソプラノ。まったく同じ声種の2つの声が重なるこの二重唱は、ふたりが魂の双子であることを見事に描き出していた。

 この役を20年以上も歌っているというディドナートは安定感があったが、ともすると堂々としすぎていて「花を愛し美しいものに憧れる無垢なシンデレラ」にはみえないところがしばしばあった。非常に高度な歌唱力が要求されるので難しいとは思うが、そろそろフレッシュな若手でこの役に合う人に登場して欲しい(とはいえ、彼女の表現力にケチをつけるところはまったくない)。アリス・クートは、何だろうこの人、体格もよろしくてちょっと気をぬくとオバチャン(失礼!)にみえちゃいそうなのに、歌が始まるともうシャルマン王子(「魅惑の王子」という意味だ)そのもの。愛に飢えた孤独な青年王子の苦悩をこれほど深い声で表現できる人は、そうそういない。妖精のキャスリーン・キムはとにかく高い声がよく響き、コロラトゥーラは見事だし、ちょっとすました女王様キャラを嬉々として演じていて終始目を奪われた。サンドリヨンの父パンドルフのロラン・ナウリは、「フランスのオヤジ」を演じさせたら右に出るものはないだろう芸達者。そして継母を演じる名メゾ、ステファニー・ブライズの度胆を抜く歌唱力。歌手陣のレベルがすべて素晴らしく高いことが、公演成功の大きな要因だったことは間違いない。さらに、指揮のベルトラン・ド・ビリーが、この作品を初めて演奏するMETのオケから、明晰だけれど優雅、軽いけれどドラマティックというマスネの音楽の美点を見事に引き出していたこともいっておくべきだろう。

 私はオペラの楽しみとは、何も考えずに自分とかけ離れた世界に浸ること、描かれているドラマを自分自身の問題としてとらえ考えること、両方あると思っている。だから、オーセンティックな演出も現代的な読み替え演出も、どちらもあっていいし、あるべきだと思う。ただ、どちらの場合にも、演出はあくまでも作品の本質、すなわち音楽に根ざしたものでなければならないという点は譲れない。どれほど大胆な解釈も音楽が要求しないものはゴミだし、どんなに美しく豪華な舞台も音楽が描こうとしているものと乖離してしまっては空疎だ。ロラン・ペリーの『サンドリヨン』は、その点で「演出とはこうあるべきだ」という見本のような舞台だった。

2018年6月5日、東劇。

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室田尚子
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