【Opera】METライブビューイング『ナブッコ』
いつものライブビューイングに比べてとても混んでいる…これはやはりドミンゴ様効果なのか。
本日は、テノールからバリトンへと華麗な転身をとげたプラシド・ドミンゴがタイトルロールを歌うヴェルディ『ナブッコ』を鑑賞。指揮はジェイムズ・レヴァイン。そりゃ盛り上がらないわけがない。METの客席も序曲が終わったところから大喝采、ドミンゴが登場したら大喝采、カーテンコールはスタンディングオベーション。ふたりの「レジェンド」がどれほどニューヨークの人たちに愛されているかを今さらながら感じる。
さて、肝心のプロダクションだが、ひとことで言えば、「ザ・歌の競演」。近年のオペラ界の「演劇的要素重視」の潮流をぶった切って埋め立てるかのように、(声も見た目も)重量級の歌手を揃え、合唱の人数も惜しげもなく投入し、余計な芝居や動きは一切させず、とにかく思う存分歌わせる。その様はさながら歌の満漢全席。
(余談だが「行け、わが思いよ金色の翼に乗って」は2回歌わせてました。その時のレヴァインの満面の笑みとか、もうね、映像撮ってるスタッフも「俺たちの芸術監督を見ろ」って感じでね、ここでも彼への愛がすごいとしか言いようがなかったよね…。)
そもそも『ナブッコ』というオペラ自体、まだベルカント・オペラの影響の大きかった若きヴェルディの出世作。複雑なドラマや人間の内面を描くというより、あくまでも歌の力で構築していく作品なので、余計な演出や読み替えはそぐわない(某深刻のプロダクションを思い出した人、手をあげるように)。だから、今回のプロダクションのように、とにかく「歌える」歌手を揃えて迫力ある音楽を作り上げるやり方は大正解だし、またこれほどの歌手および合唱団を揃えられる(そしてすごい大規模なセットを組める)ところにこそ、METを観る醍醐味があるといえる。
そんな実力派ぞろいの歌手の中では、アビガイッレを歌ったソプラノのリュドミラ・モナスティルスカが出色。フォルティッシモはいうにおよばず、ピアニッシモの伸びと響きが素晴らしい。ただ一点気になるとすれば、その歌ほどには演技力がないということだろう。しかしそのことは、実はこのプロダクションにおいては必ずしも欠点ではない。オペラがミュージカルやオペレッタと決定的に違うのは、例えば「なんて美しい人」というテクストがあった場合に、その「美しさ」は実はすべて「音楽に書かれている」ということだ。そして、「歌」がそのように歌われるとき、そこには余計な芝居はいらない、という考え方も当然あり得るわけで、今回のモナスティルスカの「歌」は、まさにそうしたオペラならではの音楽のあり方を体現していたといえるのだ。彼女だけでなく今回のキャストは、「芝居」ではなく「歌」によって表現出来る歌手が揃えられていたといっていい。ただひとりをのぞいては。
そう、そのひとりこそが、ドミンゴその人である。もちろん、彼の「歌の力」が低下した、などといいたいのではない。確かに、若い頃に比べて声量や安定感はやや衰えたかもしれない(年齢を考えたらそれでも驚異的だが)。しかしその表現は、他の若い歌手たちをはるかに凌駕している。何より声の持つ「色気」がすごい。彼の歌からは、確かにナブッコという人物の傲慢さ、それゆえの孤独、裏切られた悲しみ、後悔、そうした人間性そのものが聴こえてきたし、それはものすごくセクシーで惹きつけられる。
そして、その「声」にひけを取らない体の表現。彼が舞台に登場しただけで、そこに何か別の光が当たっているような、特別な粒子をまとっているような空気になる。これこそが「スター」の条件なのだろう。その空気の中で、時に這いつくばり、時に大胆に立ち上がり、嘆き、祈り、人々を鼓舞する演技を繰り広げていく。「声」の表現と「体」の表現が一致した時、オペラはこれほどまでに見応えのあるものになるのだということを、70を超えたこの天才的歌手は私たちに見せつけてくれた。そのような歌手が今、世界にどれほどいるだろうか。
2017年2月6日 東劇