見出し画像

類い稀な歌手による類い稀なリートの世界〜【Concert】森谷真理ソプラノ・リサイタル

 ひとりの歌手を追いかけてくると、「今がまさしく絶頂期だな」と感じることがある。もちろん、そう思ったらさらにその先があった、という嬉しい誤算も含め、その歌手の「成長」のプロセスに並走してきたような喜びを感じる瞬間だ。森谷真理も、メトロポリタン歌劇場で鮮烈なデビューを飾った後で帰国し、日本のオペラの舞台に登場した当初から追いかけてきたひとりだが、オペラにせよコンサートにせよ、ここ数年の彼女の舞台は聴くたびに「絶頂期なのでは」と思うほど完成度が高い。シューマンとマーラー夫妻の歌曲を取り上げた今回のリサイタルも、その完成度は群を抜いている。いったいこの人はどこまでいくのだろう、と震えさえ覚えたとき、あることに思い至った。森谷真理という歌手は、右肩上がりの「成長」などというものをとっくに超えたところにいるのではないか。舞台に立つたびに、その都度作品に適した表現を取り出してみせるという、おそろしいほどのポテンシャルをもっているのではないか。彼女にとって「歌う」ということは、(誤解を恐れずにいえば)必死で獲得したものではなく、すでに自らの内にあるものの強度を鍛え上げ磨き上げた末に、ひょい、と取り出してみせるようなことなのではないのだろうか。なぜならそれほどに彼女の演奏は常に自然で、まったく無理を感じさせない。モーツァルトであろうとリヒャルト・シュトラウスであろうとプッチーニであろうと、フランス歌曲であろうとドイツ・リートであろうとイタリア古典歌曲であろうと、ジャンルを問わずそうなのだ。こんな歌手が、今、他にいるだろうか。

 紀尾井ホールで行われたリサイタルは、前半にクララ・シューマンの「6つの歌曲」作品13とロベルト・シューマンの「リーダークライス」と「ミルテの花」からの3曲ずつを置き、後半にはアルマ・マーラーの3曲とグスタフ・マーラーの「リュッケルトによる5つの歌」という、なかなか考え抜かれたプログラムだった。個人的にはロベルト・シューマンの6曲に感じるところがあった。シューマンの歌曲というのは、私にとっては「とてもいい音楽ですね」という以上に心を奪われるような体験のないジャンルだったのだが、森谷真理は、ロマン的情熱の横溢とでもいうべき途方もない感情表現をみせ、よく知っているはずの作品からまったく知らない表情を引き出してみせた。もちろんそれは、ダイナミクスの豊かさ、特に高音におけるピアニッシモの安定感などの高い技術があったればこそ可能となったものだが、何よりも、テクストに含まれている言葉のひとつひとつを「音」として表す能力には度肝を抜かれた。そもそもドイツ・リートというジャンルが求めているのは、この「ひとつひとつの言葉を音で表現すること」ではなかったか。いや、それはドイツ・リートに限らず、あらゆる「歌」に共通しているのだろうが、特に言葉と音との結びつきという点でドイツ・リートにおいてその要求は大きい。そしてまた、それがドイツ・リートにおけるもっとも難しいポイントであり、凡百の歌手がなかなかなし得ない課題でもあるのだ。どちらかというと「オペラ歌手」というジャンルに分類されることの多い森山理が、これほどのリート歌手であることを私は、この日、初めて認識した。

 もしかすると、森谷の歌唱はあまりに感情表現に寄りすぎていて、従来の「ドイツ・リート」の範囲を大きくはみ出す、という評価もあり得るのかもしれない(あまりに「オペラ的」であるというような)。しかしこの夜の「献呈」は、「くるみの木」は、「蓮の花」は、私がこれまでにもっていた作品に対する理解を遥かに超えるていたし、だからこそそれに心を射抜かれたのだ。また後半のマーラー夫妻の作品からは、そうした「オペラ的」な匂いはずっと後退していたことも書き添えておきたい。もし当夜、ドイツ・リートをあまり知らない人、あるいはドイツ語すらよくわからない人が客席にいたのならぜひ聞いてみたい。この演奏に心をつかまれたのではないですか、と。

 こうした森谷の作品理解を強力に支えているのが、河原忠之のピアノであることはいうまでもない。河原のピアノは単なる「歌の伴奏」を超えた深遠な表現をみせる。音色の繊細さ、響きの奥行きは尋常ではない(よくオーケストラのようなピアノ、というが、河原のピアノはオーケストラを超えているとすらいえるかもしれない)。森谷のいいたいこと、やりたいことを完璧に理解しているからこそできる表現だろう。技術の高いピアニスト、歌手に合わせるのが上手いピアニストはいるが、日本で、いや世界的にみてもこのような表現のできるピアニストはほとんどいないのではないだろうか。

 最後に。森谷はリサイタルというものを、よくある「歌手が自分の歌えるものを聴かせる機会」と考えていないということについて記しておきたい。以前インタビューした時、彼女は自分を「言葉を発する楽器」だといっていたのだが、この日のリサイタルからは、「作品の表す世界を具現化するために自分という歌手(=楽器)がいるのだ」ということがはっきりと伝わってきた。それは、当日になって曲順が変更になったり、アンコールをしなかったことからも明らかだ。こうした姿勢からも、森谷真理という歌手が他に類をみない存在であることがわかるだろう。

2022年6月22日、紀尾井ホール。

皆様から頂戴したサポートは執筆のための取材費や資料費等にあてさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします!